PAGE TOP

をちこち

印刷する

伝記「長谷川泰」《3》

第3回

さぼ郎
順天堂時代の先輩相良知安の弟で同窓でもある友人相良元貞の推薦で、明治2年(1869年)大学東校少助教、明治3年(1870年)大助教。

当時の医学校は、ウィリアム・ウィリスが治療と講義を行っていたが、相良知安らは順天堂時代からドイツ医学を学んでいた関係もあり、ドイツ医学導入を政府に迫っていた。

イギリス医学を勧めていたのが西郷隆盛山内容堂であったが、相良知安の強引さは、薩摩や土佐の恨みを買うこととなり、大学会計不正に連座して収獄され、後に疑いは晴れるが第一大学区医学校(明治5年の学制改革で名前が変わる)校長を解任される。

ウィリスは薩摩に移って活躍をする。

佐賀藩のよしみで江藤俊平等の献策により出獄が叶うが、征韓論で下野した江藤新平を支持したことなどが災いした。

明治4年に、ドイツからミュレルホフマンが着任すると、ドイツ流に教育改革をし、当時、大学東校にいた300人の生徒のうち、50人を残してほかは切り捨ててしまった。

明治2年より大学東校校長の要職にあった佐藤尚中は、外人教師と衝突をし大学を去り、明治6年に「済衆舎」なる医学校を鳥越に作る。病床実習は神田練塀町の順天堂医院を使用した。

話は前後するが、佐藤尚中が医学校を去るとき、長谷川泰にあとを任せた。すなわち、このとき、第一大学区医学校の校長に就任していることとなる。1ヶ月の後に相良知安が出獄したので、泰は相良に校長職を譲っている。

相良知安という人は個性の強い人であり、田中不二麿は医学校校長を帰るための第一弾として長谷川泰を、まず、長崎医学校校長に転任させ、1ヶ月後の明治7年9月に相良の校長職を解いた。

田中不二麿という人は、明治草創期に尾張藩出身という珍しい出自の人であった。彼は尾張藩という徳川大藩にもかかわらず尊王攘夷を藩内で解き続け、王政復古となると参与として新政府で活躍をする。

岩倉使節団として欧米に随行し、帰国後、欧米流の自由教育を実施し、学力低下を招いたとして文部大輔を解かれ司法卿となる。

長崎医学校に転任した長谷川泰は、赴任の2ヶ月後に長崎医学校は廃校となり、生徒は東京医学校に転学された。長谷川泰は、長崎医学校で山根正次と親しくなり、後に、山根は日本医学校の校長となることで、済生学舎廃校時の学生を救済してもらうこととなる。

明治8年、長谷川泰は、順天堂の近くに居を構え、胸の病に苦しむ恩師、佐藤尚中を見舞いながら西洋医学促成のための医学校を作る思いを温めていた。

相良知安
佐倉順天堂で佐藤泰然に学び、長崎でオランダ人医師ボードインにより医学を学ぶ。明治初期の医療行政に於いて文部省医務局長などの役職を経験したが、当時主流になりつつあったイギリス医学を否定し、頑迷にドイツ医学を推奨したため、薩摩、土佐から恨まれることになる。
本人の性格にも起因するところがあったものと思われるが、江藤新平らの征韓論などの影響もあってか、東京大学の前身の校長まで務めたものの、晩年は生活に困窮し、筮竹を片手に遊女相手の街の占い師に身をやつした。
東京大学医学部構内に相良知安先生記念碑」が建っているという。

明六社
1873年(明治6年)7月にアメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に同年秋に啓蒙活動を目的として結成。
明治六年に結成したことから明六社と名付けた。
森有礼明六社を作るにあたって相談した西村茂樹は佐倉藩支藩の藩邸で生まれ、10歳で佐倉藩で儒学を学ぶ。堀田正睦が大老であったこともあり、海防策を献じるとともに、海外との交易を解く。
伊藤博文などの新政府の欧化主義的風潮を批判し、日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本としてこれに西洋の精密な学理を結合させるべきと説き、国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとした。
勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示した。

出典)「済生学舎と長谷川泰」著:唐沢信康さん 他Wiki

キーワード