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「弥助」という黒人の映画化

さぼ郎
たまたま、ニュース記事を読んでいたら「織田信長に仕えた黒人侍《弥助が世界で脚光 ハリウッド映画化も」というタイトルを見つけて読んでみました。
仏ルモンド紙など欧州メディアが相次いで「黒人のサムライ」を記事に取り上げた
とのことで、伝記実写映画がハリウッドで企画されたそうです。
天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている
とのこと。ヴァリヤーノがインドから連れてきたようですが、インドにいたのを連れてきたのか、はたまた、モザンビークから連れてきたのかは不明です。

家康の家臣の松平家忠が日記を書いており、
『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様]御ふち候、デウス進上申候、くろ男御つれ候、身は墨のごとく、丈は六尺二分、名は弥助と云」
とその容貌が記述されているので、信長ならではの事実のようです。

本能寺の変に巻き込まれ、信忠を守るために戦ったものの、
『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という
処分するか聞かれた光秀は、
「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた
とあり、その後の消息は絶えて無いようです。

結城秀康、有馬晴信などの家臣になったというような話もありますし、はたまたモザンビークに帰ったと言うような話もあるようですが、事実は時の中に埋められてしまっているようです。

世の中には「知識」が充満しています。ワタシもNewsweekを10週買って目を通してみました。

たしかに、普通には目にしない記事が満載されていて世界の動きがわかったようなつもりになりますが、そんな情報を目にしたところで、殆どは記憶に留められていません。

その間にも「グロースハック」「コンテンツマーケティング」「免疫」「秋丸期間」「国家神道」「暗号」「ブロックチェーン」など、いろいろ読みましたが、それぞれの情報で記憶に留まっているのは、せいぜい、1%前後かそれ以下の様な気がします。

文書管理のコンサルタントで活躍している後藤さんによれば、文書に書かれているのが「情報」。文書を束ねているものが「文書ファイル」。

この文書ファイルを、事務室に置くことをかつては「保管」といい、保管年数がすぎると倉庫に「保存」して、その後、アーカイブに値しなければ「廃棄」になるというのが文書管理の基本です。

しかし、人間の記憶はそのようにうまくは動きません。

「情報」は、そこいらに満載されています。きのうも「チコちゃん」で、大人の男の声が低くなるのはなぜかという子供の質問に、答えは「女にモテるため」という答えが出されており、未開の人たちにおいても、声の低い男のほうが子供の数が多いとか言っていました。

声の低い男のほうが免疫も強く、病気になりにくいとのことで、あっちのほうも強いらしいです。知性とか資産などがはびこる前の世界においては「腕力」だけが子を残す源だったはずですが、「魅力的な低い声」も大きな要素だったようです。

しかし、そうなると結果として「魅力的な低い声」の種から子が生まれる機会が増えるわけですが、その割には「魅力的な低い声」のヒトは、それほど多くはありません。

つまりは、こんな知識は科学的な根拠がある話でもなく、また、仮に科学的根拠あったとしても、時の経過の中で埋もれ忘却されていく数ある情報の中の一つでしか無いわけです。

情報のことごとくは忘却され、かと言って自分の価値観に合致する情報の一部は摂取され知識となっていくわけです。

そのようにして身につけた知識とて、使用しないうちにニューロンに接続は切れてしまいますが、感情の傾向として作用はしているような気がします。

つまり、何が言いたいかというと、知識を見つけるためには目的と体系が不可欠で、そこいらにありふれている情報を散発的に取り込んでも、自己にとっての価値にななりにくいと思うのです。

自分を自分たらしめる「コンテンツ」をいかに構築していくか、いかにしてその「コンテンツ」を体系化していくかが、自分と社会との接点において重要なことであったのだと、今更ながら気がついている有様です。

信長の家臣に黒人の弥助がいて、本能寺で光秀に助けてもらったからといって、それは自己のコンテンツとして社会の接点には役に立つことはありません。魅力的な声の男を女の本能が求めているからといって今更魅力的な声になって窓辺でギターでも弾きながら女口説くことはないわけです。

総合的に考えてみると、自分の人生は「無駄」「無節操」「非体系」という「コンテンツ」で充満されていて、いまさら体系的な知識が収まるスペースはなさそうです。

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