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あれこれ

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否定と肯定

さぼ郎
否定と肯定」という映画をTSUTAYAで借りてきました。wikiにも記事が出ていました。
批評家からは概ね好評を得た。映画批評サイト・Rotten Tomatoesでは、150件のレビューに基づき、83%支持、平均点数6.8点(10点満点)となっている。Metacriticでは、34件のレビューに基づき63点が付けられている。
とのことです。

観た感想としては、とくにどうということはなく、主人公の女性の役割(セリフや表情)には、ちょっと否定的な感じを受けました。ワタシなら知人友人にはお勧めしません。

イギリスとアメリカの裁判のやり方の違い、弁護のあり方の違いなどもテーマとして入れ込んでいるので散漫な印象は禁じえませんでした。

あらすじとしては、訴えたイギリスの自称歴史学者の持論は「ホロコーストはなかった」、「ヒトラーはユダヤ人の虐殺を命じてはいなかった」という主張で、著書も多く出しておりネオナチなどの支持を得ています。

それに対して歴史を歪曲して虚偽の持論を流布しているとしたアメリカの学者をイギリスの学者が名誉毀損の裁判をイギリスで行いました。その経過と判決までを描いたストーリーです。

判決で裁判長は、
アーヴィングは彼自身のイデオロギー的理由から、歴史的証拠を持続的かつ故意に間違って解釈し操作している。
同じ理由から、彼は主としてユダヤ人に対するヒトラーの態度や責任の面で、ヒトラーを不当に好意的な人物のように見せかけている。
したがって被告の立証は成功している。
その結果として被告を支持する判決が下されなければならないということになる。
ということで、原告敗訴。という筋書きでした。

映画自体が浅はかな作りになっているため、「否定と肯定」という問題への切込みにかけている気がしました。

ホロコーストがあったかなかったかという問題は、日本も周辺諸国と「従軍慰安婦」や「南京虐殺」のような問題に於いて、イデオロギーが介入することで「否定と肯定」になってしまいます。

今朝、瀬畑源さんの「公文書問題」という本を読んでいましたが、
歴史資料には「真実」が書いてあるのではなく、その執筆者にとっての「事実」が書いてあるにすぎないと考え、他の資料と付き合わせるなど、書かれている内容を批判的に検討することが求められているのが常識
とありました。

これは加計問題でいうなら、文科省から文書が出てくると、すかさず官房長官が「怪文書」としていましたが、その文科省の文書の内容が怪文書」であることの根拠を示せるだけの資料を内閣府は一切提示していません。

森友問題に於いても同様です。不都合な文書を1年未満の「個人的メモ」「軽微な文書」「組織的に使用していない文書」として廃棄(していなくても廃棄したことにしたのが「南スーダンの日報」)扱いにして不都合な事実はすべて隠蔽し、挙げ句には「挙証責任」などという怪しげな法律用語を持ち出して「否定」する側を封殺しようとしていました。

しかし、民主主義を標榜する以上、野党の追求に対して常に「挙証責任」を持つのは権力を有する側であり、自分たちの政策を「」とする側が、その「」の根拠を証明できなければ「一点の曇もない」とすることの根拠は、あまりに脆弱です。

自殺者まで出して、決裁文書の改ざんまでした、一人も逮捕されないのなら「国家公務員法」「公文書管理法」がザルであることは間違いのないところです。

法改正が喫緊の課題であることは間違いのないところです。

証拠を隠滅すれば、なにをしても「肯定」されるのなら、発展途上の独裁国家と実質は変わりません。安倍晋三は、足利義満以来、二人目の「日本国王」になりつつあります。

しかし、それをかつての「民主党」の大失敗と現在の野党の体たらくの責任にするけれども、選択しているのは有権者であり、まさに天につばを吐くような結果になっています。

イギリスの法廷弁護士のセリフですが、「自分がホロコーストのナチスだったたならば、自分は弱さから命令に従っただろう」「世界はいつも卑怯者だらけ」と語っています。

このシーンだけは、この映画で最も賛同できる場面でした。かく申すワタシも間違いのない卑怯者です。戦前なら、率先して「天皇陛下万歳」だったことは楽に想像できてしまいます。

おおかたの人間の本性が卑怯者なら、そうしたヒト達が卑怯者にならない世の中を作っていくことが、なによりも大切なことと思います。それは民主主義であるとか無いとか以前に、権力が突出しない世の中でなければだめだということです。

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