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科学

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「勝つための議論」という記事を読んで

さぼ郎
日経サイエンス

2018年6月号の特集は「新粒子出現か」とか「さようならホーキング」とかで、およそ興味が持てない内容でした。

日経サイエンスという雑誌は、総じて事実かどうかもわからないような先端の話を膨大な文字数を使って、さもわかったような書き方をしている雑誌であることは間違いのないところだと思います。

コンテンツマーケティング」を雑誌に適用するなら、読者が何を求めているのかを前提に記事を構成しなければ、雑誌としての使命を果たすことはできません。

にもかかわらず、日経サイエンスは編集者たちの独りよがりが先行していて、読者の求めには応じる気がないように思います。

まず、文字数が多すぎること。印刷面に文字が載っていることも少なくなく、字も小さいのでとても読みにくく、かつ、読者層のレベルを間違っていることは確実です。

量子力学、遺伝子工学、進化論、認知心理学、生物多様性と多岐にわたるのはいいとして、そのそれぞれに深い知見を持っている読者がいるはずもなく、結局は、そうした幅広い科学の知識に興味を持つ、趣味の人々が対象になるはずです。つまりは、いくら頑張ったところで専門誌ではない。

ゆえに、読者層と内容のレベルにミスマッチがあると思います。その逆のいい例が「NewsWeek」です。判型もA4では文字数が多すぎるので、B5にするべきですし、3段組の文字配列は辞めて2段組にするべき。

極力、横書きは辞めて縦書きにするべき。文章は簡潔に書き、フォントサイズ、文字間、行間を少し広めにする。

なぜなら、これだけ老人を抱えた社会において使いもしない知性と時間とお金を持て余しているのは、老人(50歳過ぎ)だからです。

老人

日経サイエンスにはハガキで上記のような要望を出しましたが、聞き入れられるはずもないのですが、返事も来ませんでした。どれくらい、このような馬鹿な要望が来るのかは不明ですが、ワタシが編集者なら必ず返事を出します。

つまり、編集者たちは英語に熟達していて、科学に精通している「卓越の師」であるという自負があることが想像できます。というのは、元、日経サイエンスの編集長をしていたというヒトの書いた本を読んだことがありますが、そうした気分(上から目線)が抜けきれていませんでした。

コンテンツマーケティング」を原点において、優良なコンテンツがあるのですから、それを科学好きな素人がちょっと利口になったと思えるような内容にレベルダウンして普遍性を高めれば、良い雑誌になると思います。

つまり、読者視点が欠如していると思います。

で、「勝つための議論」というタイトルに記事があったので、文字数も少なくて読みやすそうなので読んでみました。

著者は、カーネギーメロン大学、エール大学、仏ジャン・ニコ研究所の方々。書いている内容は、議論には「学ぶための議論」と「勝つための議論」があるのだそうで、米国では政治が二極化する過程で「勝つための議論」が増えてきていると指摘している。

議論は、論争で相手を打ち負かすことが重要で、そのために、相手に対して敵意を持つことが当たり前になってきているわけです。そうなると、自分のポジションにとって都合の良い情報だけを集めるようになり、逆に、相手の弱点を誇張して扇動するようなフェイクが横行するようになります。

米国の大統領選では、そこをロシアに付け込まれたわけです。

こうように一つの陣営に帰属するという意識から、結束を固めていくことを「トライバリズム」というのだそうですが(日本語では「部族中心主義」「同族意識」)この過程で、倫理のことや政治のこと、宗教のことのような、甚だ主観的な問題すらも客観的に捉えようとしていく傾向が強まるようです。

部族

日本で言うなら戦前のように「天皇が神である」というような空想の話ですらあたかも客観的事実であるがごとくの刷り込みが始まるわけです。

このように、主観的な問題や答えのない問題に対して、ヒトは通常、相手の立ち位置を斟酌して自分でも可能な範囲で歩み寄りながら、相手の価値観から摂取できるものを得ようとする努力をしてきたから社会を構成できたわけです。

だからこそ、相互に理解が積み上げることができるはずなのですが、一度客観主義(あるいは原理主義)に陥ると、自分が持つ客観的と思しき正解に異を唱える人々はみな、敵になってしまいます。

と、このようなことを4人の優秀な学者が研究しているという話。見開き4ページ。大体約5千文字の記事でした。

ところが、このようなことは紀元前の中国で莊子が言っています。議論とは、片方が相手を「お前は馬鹿だ」と罵ると、罵られたほうが「そういうお前が馬鹿だ」というだけのことなので、時間の無駄だと言っています。

テレビの政治討論の番組などは典型ですね。右だろうが左だろうが、喋っているヒトは、自分だけが利口であるという前提でいるので人の話を聞こうとはしません。このような番組は時間の無駄なだけなく、客観主義を横行・助長させるだけの害毒番組の気がします。

莊子は、意見が分かれるからこそ、議論をするべきといいます。つまり、どこで意見が別れたのか、同意見だったのはどこまでだったのか。そこを話さなければ議論をする意味はなく、議論から学ぶものは何もないと指摘しています。

共感の功罪」という記事もあり、興味があるのでいずれ読みますが、こちらは推定8600文字。ちょっと長いのでいずれ読みます。読んでもすぐ忘れるので、本当に残念な頭ですが、これは親を恨むしかありません。

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