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あれこれ

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中村文則が書く小説

さぼ郎
何もかも憂鬱な夜に

「これは凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には無数の生き物と人間がいる。何かでその連続が切れていたら今のお前はいない」

「現在と言うのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい」

「自分の好みや狭い了見で作品を簡単に判断するな」

「自分の判断で物語をくくるのではなく自分の了見を物語を使って広げる努力をした方がいい。そうでないとお前の枠が広がらない」

「自分以外の人間が考えたことを味わって自分でも考えろ」

「考えることで人間はどのようにでもなることができる。・・・世界に何の意味もなかったとしても人間はその意味を自分で作り出すことができる」

と、これは主人公がいた施設の「あの人」という施設長が、主人公に小説や音楽を進める時に話した内容。

主人公は拘置所の看守という職業に就いている。そこには夫婦を殺した殺人犯が拘置されていて、その犯人は死刑判決に対して控訴しない。

控訴しないことに主人公は、「逃げるつもりなんだな。控訴しないで」というと、殺人犯は「違う」「やるべきことが一つ残っているからだ。死ぬことだ。」「あの二人の親とか知り合いは俺が生きているのは嫌だろう? それが俺の役割だよ。初めてだ。俺が何かの役割の中にいるのは。だから死ぬんだ」

「確かにお前の言うのはそうだ。お前が生きていると辛い人間がいる。せめて、残った人間をこれ以上不幸にする必要はない。お前は死ぬべきかもしれない。でも、でもだ、お前は生まれてきたんだろ?」

「命は使うもんなんだ」

「控訴してもお前の死刑は変わらない。」「事実を言ってから死刑になれ。」

「人間と、その人間の生命は、別のように思うから。・・・殺したお前に全部責任はあるけれど、そのお前の生命には責任はないと思っているから。お前の命というものは、本当は、お前とは別のものだから」


これは、中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」からの抜粋です。

なぜ、中村文則さんを読んだかというと、ある人が、例の座間の9人殺しのような事件が起きる背景は、中村文則さんを読むとよくわかると言っていたので早速図書館から借りてきて読んだというわけです。

最後に「解説」がありまして、いまや文豪として誉れも高い又吉直樹さんが書いています。

殺人犯の死刑囚が主人公に長い手紙を書くのですが、そのことを又吉さんは、

「僕も真下(自殺した主人公の友人)と同じように自分を特別な存在であると夢想する気持ちに反して、それを実現するだけの才能が無い、という齟齬に悩まされた。どうせ才能がないのなら、自分を脅かす何かに気付いてしまう神経もなければいいのにと思いながら、ただただもがくしかなかった」


今の若者の底流にある感情なのかは分かりませんが、自分と若者に隔絶があるとするなら、一部にはこのような感情があるのかもと思いました。

中村文則さんを薦めてくれた人のいいたいことも、なんとなく分かるような気もしました。

そうなんだ、こういう気分に支配されていて、その感情から物事を考え、行動を規定していくことで、多様な若者の中から、彼の描く世界のような気分に充満されていく若者が出現することには、さほど違和感がないように思えました。

自分」が「」を専有しているわけではない。しかし、逆を言えば、「」からすれば、「自分」という自己は、一つの現象でしかなく、個々の思いや悩み、苦しみ、喜び、善悪、賢愚などには、全く関わってもいません。

単に適当な相手を見つけて生殖をして「」を繋ぐだけの中継点でしかないわけです。

ワタシにとって第三者の価値とは、了見の広狭でもなく、知識の深浅でもなく、優しさであり滋味だけのような気がします。そんな人間になるためには「芸術作品」の役割など、さほどには感じられません。

おそらく安倍さんが推進しようとしている「道徳教育」でもなく「哲学」でもなく、「宗教」でもないように思います。

やさしさ

一つ思い当たるのは「母親の優しさ」であることは、きっと間違いないところじゃないでしょうか。

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