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あれこれ

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国家神道と無宗教

さぼ郎
神道の虚像と実像」という本を読んでいます。著者は井上寛司と言われる方で、たまたまYouTubeにも、本のダイジェストのようなお話がアップされています。





難しい話は本を読むとして、日本人がかくも無宗教になってしまった端緒は、明治政府の「国家神道」にあるというようなことが書かれていました。

本居宣長がいわば「国体」と云うような概念を持ち出す。それを平田篤胤が神がかった「国体論」に昇華させる。そんな雰囲気を継承して、国民を「教化」する手段として「神道」を持ち出しますが、宮司や神官に国民教化の任務を果たせるはずもなく、国家は憲法制定の翌年に「教育勅語」を編み出し、非力な宗教ではなく「教育」によって民衆を教化することにします。

紆余曲折はあったものの、宗教としての神道や仏教の上に「国家神道」を置き、これは宗教ではなく「道徳」だとしたわけです。

一つには列強からキリスト教を禁教にすることを止めるよう圧力がかかっていたこともあり、「国家神道」を宗教とすると不都合でもあったわけです。

どうやら、このあたりから日本人の宗教観は曖昧になって来たようだと、先生はおっしゃっています。

宗教

とはいえ、完全な無宗教かと言えば、お祭りと言えばあれほど夢中になってお神輿を担いだり、御神木にまたがって坂から落ちてみたり、受験や就職となるとお宮にお参りしたりしています。

また、12月25日になれば、狂信的な仏教徒でもない限りクリスマスとしてなにかしら行事をする家庭がほとんどなわけです。

天皇に対する距離感も、ほとんどこのようなレベルであって、ときとすれば身近であり、有難くも賢くもあるわけですが、ときとすれば、本人たちの能力や努力とは一切関係なく、生まれたときから皇族という特殊な身分を世襲することに理不尽を感じたりもするわけです。

明治になって新政府は神仏分離を政策として行ったわけですが、それに呼応して廃仏毀釈が行われました。政府は神社を天皇神話につなげ古事記や日本書紀から神様を引っ張り出してご本尊としたわけで、イワシの頭じゃだめになったわけです。

イワシ

たまたま図書館に行ったら芥川龍之介の「杜子春」という短編集が、買い替えで新着の棚に置かれていたので借りてきました。

その中に「黒衣聖母」というお話がありまして、黒檀で作られた聖母麻利耶の台座に「汝の祈祷、神々の定めたもうところを動かすべしと望むことなかれ」と書かれていたというお話です。

もう少し、お話を披露すると、両親を亡くして孫がお婆さんに育てられる。男の子が病に倒れ死にかかる。そこでお婆さんは女の子の孫と土蔵の奥に隠してあった聖母麻利耶の像にお祈りをする。

せめて自分が生きているうちは孫を召さないで欲しいというようなお祈り。

披露困憊するほどの看病の甲斐あって男の子は奇跡的に回復しだす。で、お婆さんが安心と疲労のあまり少し横になると、そのまま神に召されてしまう。同時に、男の子の容態が急変して、お婆さんの死の直後に、神に召される という話。

神の定め」を動かそうとする祈りをしたことで、男の子の天寿の直前にお婆さんを召してしまったというわけです。

その女の子がお婆さんと祈ったのが嘉永の頃で、キリシタンは禁制でした。そんな時分の雰囲気と、そして芥川が書いている大正の頃の雰囲気とが微妙に混じり合って、少なくとも今の小説家では醸し出すことがおよそ出来ないであろう文学の世界を作り上げているのは、流石の芥川ですね。

とはいえ、いっかな黒衣の聖母であろうが、人の人生を変えてしまう程の物理的なチカラなどはあるはずもなく、見え方の符合でしか無いわけですが、逆を言えば、そうしたたまたまの符合からイワシの頭ですら信心の対象となるわけでもあります。

つまり、できることはする、出来ないことはできるようにする。さもなければ、あるがままを受け入れる。

宗教であろうが、道徳であろうが、人生は、これしかないわけです!

天皇を神にしてしまうのも道徳教育であるわけですから、当然のことながらキリストを神とするのも教育なわけです。特に注意しなければならないことは国家が「道徳」に関与しだすことは、とても危険なことであります。

日本で教育といえば、いい大学に入って、いい会社に入って、安穏とできる人生の根源に「教育」の役割があるかの思いがあります。教育の役割は、まさにそこだけに限定するべきと思います。

教育

世の中に簡単なことは一つもなく、同時に、難しいことも一つない。簡単であると同時に難しいことであるのが、「1」でもあり「0」でもあることの同時性であり、「粒子」であると同時に「波」であることの量子の性質に近似しているような気もします。

ホリエモンは逮捕され監獄に入れられ、片や東芝を混迷させ郵政でも大損失を出しても天寿を全うしています。神戸製鋼然り、東電然り、なにが起きても企業経営者でホリエモン以外の逮捕、監獄行きは見当たりません。

結局は、「善」は「悪」であり、「悪」は「善」であるわけで、「好き」であると同時に「嫌い」であり、シュレディンガーの云うがごとく「生きている」と同時に「死んでいる」わけでもあります。

そして、その全ては確率で決まるとすれば、道徳も宗教も教育もなく、とてもスッキリとします。

今般、サンフランシスコ市長が慰安婦問題を象徴する少女像などの寄贈の受け入れを承認したことを受けて大阪市との姉妹都市を解消するのだそうです。

解消する事で一番喜ぶのが寄贈した中国系アメリカ人の団体になるわけで、この「中国系アメリカ人の団体」というのがなにを企んでいるのか?

また、それを受け入れた市長はなにを考えているのかを詳しく知ろうとしない限り、姉妹都市解消を決めた大阪市長の判断の良し悪しについて意見は持てません。

しかし、馬鹿と言われて馬鹿と言い返したところで、解決するものは何一つありません。選挙民に対するパフォーマンスだとするなら、いかにもつまらない決定のように思います。

日本としても従軍慰安婦の実態を可能な限り調べ、何が事実で何が虚偽なのかを世界に向けて公表するなどの活動をしてもいいように思います。

「リベラル」対「保守」と言いながら、憲法の改革を望んでいるのが保守で、改革の阻止を主張するのがリベラルという対立も面白いと思います。

世界の右傾化を見ていると、ナショナリズムが右傾化なのかはわかりませんが、短絡思想が右傾化の主軸にあるような気がします。世界を単純に見ることも必要だけれど、実はもっと複雑なはずだし、複雑だとして傍観してしまうほどには複雑ではないかもしれません。

世の中は 何にたとえん 水鳥の 嘴(はし)ふる露に 宿る月影

世の中を喩えるなら、水鳥が口ばしを振った時に落ちる水滴に月の姿が映し出される、その一瞬の月影のようなものだという静寂な無常感を愛でるのもいいように思います。

水滴

一瞬という時も、実は永遠なのかもしれません。そして、一つとして同じ水滴もないわけです。

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