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科学

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ハイゼンベルグと日本語

さぼ郎
日本語の科学が世界を変える」という本がありまして、2015年5月にも記事にしています。

日本語の科学が世界を変える
2015年5月の記事にリンク ↑

著者は日経サイエンスで編集をしていたのだそうです。そんな感じが本の端々に感じられます。そもそも、毎月、日経サイエンスを眺めていますが、半ば習慣として眺めているだけで、感心して読んでいるわけではなりません。

この著者の松尾さんの文章にも、日経サイエンスの鼻持ちならない雰囲気が十二分に発揮されています。

なぜなのかはわからないのですが、NHKの「サイエンスzero」で司会をしている竹内さんにも通じるものがあると感じています。

不思議な類似性ですね。おそらく、なにも成していないヒトが、他の成したるヒトの業績を自分なりに咀嚼して、あたかも、自分が成したる気分になって、自分なりの意見を述べるところが、まさしく「日経サイエンス」の立ち位置なのだと思うのですが、そんな尊大さが、成したる人たちへの敬意の希薄につながっているように思います。

とはいえ、癇に障る部分を無視して「なるほど」と思う部分を2015年5月とは異なる目で見てみると、幕末から明治にかけての急速な西欧化の中で起きていたことに得心がいきました。

そのヒントは、ハイゼンベルグにありました。

ハイゼンベルグ
wiki「ハイゼンベルグ」にリンク ↑

松尾さんの本では39ページあたりに書かれていますが、ハイゼンベルグは日本人の理論物理学者の科学的貢献について、日本人の科学者が「唯物的な思考法を取ってこなかったこと」こそが、量子論的なリアリティーの概念に適応することが容易だったのではないかとしている点です。

ここで、ハイゼンベルグというヒトに付いて少しwikiで調べてみました。1901(明治34)年に生まれて1976年に亡くなっていますから75年の人生ですね。かの戦争がたけなわになった1940年頃は40歳前後です。

1932年に31歳の若さでノーベル賞を受賞しています。ナチス・ドイツの台頭で多くの学者がドイツを去っていますが、ハイゼンベルグは「破局の後のドイツのために」残って場の量子論や原子核の理論の研究を進めたのだそうです。

原爆開発チームの一員であったのだそうですが、「理論上開発は可能だが、技術的にも財政的にも困難であり、原爆はこの戦争には間に合わない」とし、自らは重水炉の開発を遅延させたようです。

で、ハイゼンベルグの指摘に戻ると、「自然言語の概念は漠然と定義されている一方で安定している。科学言語は限られた現象のみを扱うように理想化されている」と述べているのだそうです。

つまり、科学で言うところのリアリティとは、当然のことではありますが実証性に尽きるわけです。このことは、言語における「定量性」を意味していると思います。

しかし、定量的なデータから、なにを導き出すかという作業は「定性化」の作業にほかならないわけです。

そこで、日本語の登場です。いわば、日本語は「定性」の権化のような言語であり、その上、幕末までに、西洋で言うところの「科学」も「技術」も単語としてはなかったのだそうです。

単語がないということは、実態があったとしても受け皿となる概念がなかったわけです。

この概念の欠如が、幕末から明治にかけての偉業を起こす根源となったと思うのです。実態はあった、あるいは、実態として手にできそうなところにいたわけですが、そのことに対する「リアリティー」を持つに至っていなかったわけです。定性的に把握するところには至っていたわけです。

それ故、日本語化がどんどんできた背景の一因になったのだと思うのです。そして、その日本語化において、とても重要だったのが漢文の知識だったことは否定のしようがありません。

理論物理という学問が、そういうものなのかは全く分かりませんが、松尾さんの本では46ページに書かれていますが、「原子核、陽子、中性子、電子」などは、リアリティを持って意味解釈ができるわけではありませんが、なんとなく素人概念としての理解(文字ヅラだけの)は出来ます。

原子核

これが英語だと、「nucleus、proton、neutron、electron」ですから、とても、概念に概念を積み上げていくような理論物理などにおいては、日本語の優位性は圧倒的なのではないでしょうか。関与したことがないから分かりませんが。

たまたま、今読んでいる本で「目標」と「目的」に関する記述に違和感があるのですが、「目標」とは、「富士山に登る」のようなもので、「目的」は、「何のために富士山に登るのか」のようなものと思います。「そこに富士山があるから」というのも目的ではありますが、目標ではないですよね。

ビッグデータ」とか「AI」とか、最近、盛んに言われますが、これらから「目的」を導き出すことは、かなり難しいような気がします。

例を変えて、「目標」は「今治に獣医学部を作る」とするなら、目的は「安倍さんの持つ権力におもねる」という事あたりのようなものでしょう。

加計学園に関しては、おそらく安倍さんには主体的な目的は無いのだと思いますが、ここが重要なポイントであり、権力が腐敗していく構造的宿命だと思います。

照査

権力者の歓喜を斟酌して、取り巻きがどんどん、歓喜のお膳立てをしてくれるようになるのが第一段階。

軽薄な権力者が「歓喜」すれば、ご褒美が与えられるのが第二段階。

困ったことに、「軽薄な権力者」よりも、取り巻きのほうが頭脳的には優れているのが通常で、第一段階と第二段階が繰り返されるうちに「軽薄な権力者」は、それが普通の景色に見えるようになってしまうわけです。

かくして権力には、必然として腐敗の構造が内在していて、それを腐敗させないために不可欠なのが「照査(英語で「チェック」)」なのだと思いますが、日本の権力には「忖度」はあっても、「照査」のようなリアリティは機能していないようです。

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