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あれこれ

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必然と必要

私はここまでになる必要があった

さぼ郎
許す

小林麻央さんが「私はここまでになる必要があった」というようなことをブログで公開しているという記事を見つけました。
 
状態の良い人を見ては「私は、なぜここまでにならなければならなかったのかな」「何故、順調に治っていく道ではなかったのだろう」と思うこともあったという。
そして、
しかしいつからか「私はここまでになる必要があったんだと思うようになりました」と小林麻央さんの心境が変わってきたそうです。
そう思えるときの穏やかさは魂が納得しているのだと感じます。魂って自分が思っているよりずっとずっと自分にロマンをもっているのでしょう
 と述懐しています。
  
ワタシは「偶然」という言葉は、人間の認知の仕組みであって、認知とか理解というヒト特有の思索や思考を除けば、全ての系は「必然」で動いていると思っています。
  
とはいえ、全てが摂理の系で動いているとするなら、ヒトは単なる有機物の集合体でしかありません。「必然」と「偶然」の違い同様に、「必然」と「必要」には、大きな違いがあります。
  
つまり、起きたことに対して「偶然」と捉える心があるからこそ、そうなる「必要」があったとも思えるのでしょう。そして、そのように思えるからこそ、「魂の納得」と言えるのだと思います。
  
ワタシには宗教心はまったくないのですが、この魂の納得」こそが、宗教の存在する意味ではないかと思いました。
  
いま、「トヨトミの野望」という本を読んでいます。登場人物で堤というヒトがアメリカのトヨトミ自動車で女性秘書からセクハラで訴訟されるシーンが書かれています。
  
トヨトミの野望
  
アメリカ・トヨトミ自動車CEOの堤は、その訴訟に受けて立つための理論武装をしているのですが、本社の意思決定として和解に応じることになります。
  
訴訟に勝つか負けるかではなく、CEOのセクハラという悪いイメージの払拭という経営判断と経済的損失が優先されるわけで、堤の心情としては潔白であるなら、余計に和解に応じるということは許容できることではなく、生涯の汚点とならざるを得ません。
 
堤はどうやって「魂の納得」という境地に達するのかは不明ですが、ワタシは今に至る全ての出来事が自分を形成するために「必要」なことだったのだという魂の納得」には、到底至りそうもありません。
  

 動画は「それでも僕は夢を見る」という鉄拳さんのパラパラ漫画です。夢を実現できることが人生の輝きだと思っていた主人公が、夢なんか実現できない人生であっても、意味があるという語りかけで終わります。

トヨトミの野望」で、企業の論理が優先された堤が、タクシーの窓からみる他愛もなく笑う普通の人々の姿を見て涙するシーンが書かれていますが、立身出世だけが生きる意味なのではなく、オーディナリーピープルにも、それぞれの生きる意味があるということで、だから「偶然」という認知があり、「必要」という認知があるわけですね。
 

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