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取り組み

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権力と責任の構造

さぼ郎
自分が権力の座にある時にはやりたい放題やっておきながら、その後、ひとたび自分がやったことに関連して何か重大問題が発覚すると、自己の保身と責任逃れにひた走る――。
3月3日に執り行われた石原慎太郎元東京都知事の記者会見を見ていて、このような見苦しい光景を残念に思ったのは私だけではないだろう。
太平記もいよいよ40回を超えてくると、尊氏と直義が正面から激突することになります。さらに、尊氏の庶子である直冬が九州で少弐氏等と結託して蜂起しています。

それと連動する形で直義が南朝の北畠親房等と連動して京都を迎撃することになるわけです。

その背景には、一つには尊氏の日和見というか、優柔不断が仇になっている部分は少なからずありますが、足利家の執事であった高師直と師泰兄弟の専横を尊氏が許したこと、実績も力量もない義詮に将軍職を与え直冬を無視したことなどがあって、争乱が起こります。

その争乱において高兄弟を殺害することができますが、足利幕府が安定するのは義満まで待たなければならないということのようですね。

その原因は、どこのあったかを考えると、やはり「尊氏」に帰結するとしか言いようがありません。

重大問題が発覚すると、自己の保身と責任逃れ」というと、例えば森友学園問題に於いて顕著なのは官僚と称する役人です。その役人の答弁に対して有効な攻め口を持たない野党は、所詮、偏差値の違いでしかありませんが、上に立つ人が責任を取ろうとしないで、美味しい思いだけしようとするのは、あまりにも悲しいことです。

片岡鶴太郎が演じる北条高時も、最後には舞を舞ってから腹を切りました。太平記では283人の北条一族と家臣の870人が自害したことになっています。

太平洋戦争では、軍艦が沈むときは艦長も船とともにするのが日本海軍の伝統だったようです。プリンス・オブ・ウェールズから海軍の伝統になったいうような噂もありますが、事実は不明です。

いいことなのか、悪いことなのかは分かりませんが、「生きて虜囚の辱め」を受けずという「戦陣訓」を作った偉い人は戦後GHQに捕縛されデス・バイ・ハンギングになりました。

ワタシは若い頃、上司に「失敗したら責任取ります」と言った所、「他人の人生関わった部分の責任はと利用がない」と言われました。ある時、大きな失敗をして客先の責任者に「どうしよう」と問われた時、「なんでもします」と言ったところ、「死ねと言えば死ぬのか」と言われ、そのかたから「所詮仕事には失敗はつきもの。対応を考えればいいだけのこと」と言われました。

石原慎太郎

事実は時の中埋もれてしまっているので人柄までは不明です。石原さんも、あと600年とか700年も経てば、どのように言い伝えられるのかは不明ですが、石原さんの責任として、自分の権限を浜渦という副知事に委任したことにより、浜渦体制がという独裁が行われ、その独裁者を滅ぼしたことで内田という新たな独裁者を産んだことです。

その原因は石原さんに少なからずあって、そうなった責任は、権力は掌中にしたけれど、その権力に見合う責任を果たそうと最善を尽くさなかったことにあります。

もっと違う言い方をすれば「権力」に見合った「能力」を持っていなかったということに尽きると思います。

これは、シャープも東芝も同様だと思います。東京電力にしろ、大きな企業の雇われ役員や取締の殆どが同じ構造を持っていると言っても過言ではないと思います。

東芝
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どこかの政党が流行らせているようですが「忖度」という言葉があって、権力者が権力を振りかざす限り、忖度する取り巻きが生まれます。また、忖度されることを権力者は無情に喜ぶ傾向があります。

石原さんの場合で言うなら、四男が「トーキョーワンダーサイト」の外部役員になる事自体が、「忖度」の結果なのだと思います。

TWS
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余人をもって替えがたい」といって、その「忖度」を親子で受け入れることが、権力と責任に乖離を生むこととなるわけです。「忖度」される多くの場面は、人間性に欠如があって、かつ、能力がその権力に見合っていない場合に、「忖度」が多発してくるように思います。

これって、芸能人の人気にも似ている部分があるなと思います。いつの間にか忘れられてしまう芸能人がたくさんいる傍らで、いつまでも人気を保っている芸能人がいるのですが、それが本当に芸の実力に比例しているのかは不明です。

人気があるから仕事が来る。仕事が来るから人気が出る。

しかし、使う側にすれば、人気のある芸能人を使うことで重宝するわけです。これって、「忖度」とはちょっと違いますが、使い手の利便性で、そこに有名な人がいることの価値があるわけです。

権力も似ていて、そこに権力を持っている人がいることに価値を見出す人々がいるわけで、そこに「忖度」が生まれる構造が有るわけです。で、権力を持つと、程度の低い人間性の人々は、その権力が自分の実力だと錯覚し、尊大で横暴な振る舞いを始めます。しかし、今時の権力者は、その権力が実力に裏付けられている自負がないために責任を取らない、取りようもないというあたりじゃないでしょうか。

つくづく、権力者になら(れ)なくて良かったと思います。ひとは、自分の器量の内側で生きるべきなのだという教訓を与えてくれているような気がします。

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