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水戸天狗党と中島歌子と貞芳院

朝井まかて

さぼ郎
さてさて、朝井まかての「恋歌」を読み終わりました。水戸藩の中の尊皇攘夷を巡る内紛を中核において、主人公である中島歌子の生き様を三宅花圃の目を通して描くという筋立てです。

中島歌子
「中島歌子」にリンク ↑

幕末の水戸藩というと、あまり印象がよくありません。まず、徳川なのに尊王であったこと。徳川斉昭というヒトの雰囲気が好ましくないこと。幕末において薩長と組みしたこと。その割には目覚ましい活躍もなかったこと。

慶喜が水戸の出身であり、鳥羽伏見などの判断を見る限り、頭は優秀だったかもしれないけれど、武将としての勇ましさ、歴史への登場の仕方が、今ひとつパッとしないことなどがあげられると思います。

中島歌子は、1845年に生まれ、1903(明治36)年に没しています。父母ともに実家は豪商・豪農で川越藩にも出入りしていたようで、その縁で母は川越藩の奥にも使えていた事もあったようです。

その両親と歌子は、江戸安藤坂にあった水戸藩御用達宿「池田屋」を買収して江戸に移り住みます。父が藤田東湖と知り合いであった縁から歌子は10歳から15歳まで水戸の支藩であった府中松平家に仕えたそうです。

かねてから恋い慕っていた水戸藩士・林忠左衛門と結婚し水戸に移り住むものの、1864年に林忠左衛門は天狗党の乱に加担したことで自害し、歌子は入牢させられます。

ちなみに、林忠左衛門はwikiに記述がありません。

小説では林忠左衛門の妹が藤田東湖の四男、小四郎に恋をするものの、小四郎は筑波山で蜂起し、別働隊が軍資金を集めるためと称して乱暴狼藉を働き町に放火したり、火を消そうと集まった町人を惨殺したり悪逆の限りを尽くした。

水戸では保守派の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、天狗党撃破排撃を開始する。

幕府中枢においても、幕府が決定した開港を即座に鎖港するべきであるという議論が巻き起こり、家持、徳川斉昭、慶篤、慶喜も関わる騒動になる。

この、天狗党による筑波山決起に呼応して長州藩が禁門の変を起こす。長州が朝敵となり夷狄云々より、まず長州征伐が優先されることとなり、鎖港問題は棚上げされたことで、筑波山の天狗党は大義を失い諸政党との内部抗争として新たな争乱に突入していく。

あれやこれやがあって武田耕雲斎と藤田小四郎らは京都を目指すこととなるものの阻止され、挙句に頼みとしていた一橋慶喜も討伐派になるに及び、加賀藩に投降する。

冬の加賀で鰊蔵に下帯一つで閉じ込められ、腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中で病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。その上、投降した828名の内、680名は処刑された。

天狗党が降伏したことで市川三左衛門は、水戸において天狗党の家族の処刑を始める。

1868年に戊辰戦争が勃発すると、その頃には長州は朝敵どころか、幕府が朝敵となり、天狗党残党は勢いを盛り返し、今度は諸政党の家族に対する報復を開始する。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材をことごとく失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。
と、このような状況となり、小説では中島歌子は釈放され、林忠左衛門の妹と川越を目指し、江戸にたどり着き和歌の教室「萩の舎」を設立し、大いに繁盛し自宅で教えるだけでなく、鍋島家、前田家など上流階級への出稽古もしていたとか。

生徒は上流階級の子女がほとんどで、1886年に樋口一葉が入門したころは、弟子は1000人以上を数えたというようです。

いまでは、樋口一葉の先生としてしか歴史に名を残せていませんが、小説ではかくも波乱に満ちた人生を生き抜いたようです。

「元養女すみの三男廉が養子に入って家名を継いだ」とありますが、この「すみ」を小説では、諸政党の首領であった、市川三左衛門の娘という設定で感動を呼ぼうとしています。

徳川斉昭の正室、貞芳院が小説中に登場してきます。貞芳院は、長男が徳川慶篤で、七男が慶喜です。

貞芳院
wiki「貞芳院」にリンク ↑

1804年生まれ、1893(明治26)年没。将軍家慶の正室の妹でもあったとか。

趣味は様々あったようですが釣りも好きだったようで小説中にも、そのような場面が出てきます。

印象的なのは、最後の方で貞芳院と中島歌子が対談するという場面があります(それが実際のことではないとは思うのですが)。

貞芳院:尊皇攘夷とは何か
歌子:徳川に変わって薩長が天下に号令する係になったこと

貞芳院:薩長と水戸とでは何が違ったか
歌子:幕府を倒す意思。水戸には幕府を倒そうという意思はなかった。
   薩長のような老獪さがないために、その偏狭さで自滅した。

貞芳院:それに加えて貧しさがある

と指摘します。質素倹約が行き過ぎたため、その鬱憤が中に向いてしまった。
あまりの貧しさと抑圧とで、ヒトの気を狭くした。その狭さがより弱いものを痛めつける。そして復讐を怖がり手加減できないように壮絶なさまになる。

水戸には幕末を彩る魅力ある男子が不在でした。水戸学も神皇正統記も、明治期の皇室のあり方に影響を与えたかもしれませんが、いささか偏狭に過ぎているように思います。

日本会議が、水戸学や神皇正統記を規範としているなら、ちょっと時代錯誤のような気もしますが、ひとにはそれぞれ考えや信条があって、それで社会として健全なバランスが取れているのなら、それはそれで結構なことと思います。

ただし、北条や足利の自滅を見ていると、権力が安定してくると、必ずと言っていいように権力中枢や周辺取り巻きが腐敗してきます。これは、摂理と言ってもいいように思えます。


中島歌子が本格的に和歌を勉強したのが22歳だそうです。当然、才能があってのことですが、そこから明治10年に「萩の舎」を開くまでになっています。

樋口一葉が門弟になったのが明治19年。

樋口一葉

上段中央が樋口一葉だそうです。どうも下段、右端が中島歌子のように見えます。ここに写っているヒト、全てに人生があり物語があるわけで、樋口一葉や中島歌子だけがドラマチックに生きたわけではありません。

樋口夏子(「ひ夏」-伊藤夏子がいたため、こちらは「い夏」)は数えの15歳で入塾しています。

主人公である三宅花圃が小説でお金を稼いだのを見て、ヒ夏も和歌から小説に転校していきます。

中島歌子はヒ夏を養子にして「萩の舎」を譲ろうとしたようですが、ヒ夏は樋口家を守らなければならない事情があって養子にはなれなかったようです。

もし、養子になっていれば「にごりえ」「たけくらべ」を後世に残すことができなかったかもしれません。中島歌子だって、結婚相手が天狗党として捕縛され、当人が入牢させられたりしなければ「萩の舎」での成功もなかったわけで、結局、ヒトは「そのように」しか生きられないということなのでしょう。

つまりは「運命」と「宿命」は、言葉が違うだけで同じことを言っているのだと思います。

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