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コーポレート・ガバナンス

さぼ郎
コーポレート・ガバナンス」という言葉を、最近よく耳にします。一つには知人が大学院の修士論文のテーマとして「企業におけるガバナンスと業績」について調べているという話を最近聞きました。

その例としてアサヒビールがV字回復する起点となった樋口広太郎さんを調べていたようです。

樋口広太郎
樋口広太郎さんの記事にリンク ↑

この記事を読む限り、やはり企業はガバナンスがしっかりしていなければ健全性を確保できないものなのだと感じますが、同時に、ガバナンスという統治機構のみならず、統治者(つまりは代表取締役)の能力、カリスマに依存している部分も少なくないと感じます。

その逆に、社長より偉い統治者一人の意向や発言で役員会の決定が覆ることも有るようです。
東芝には最も多かった時で相談役5名、顧問27名が在籍していたことが明らかになり、社長、会長の経験者は80歳まで相談役として君臨することになっていた。
実際、社長・会長を務めた後、東京証券取引所や日本郵政のトップを務めていた西室泰三氏も「相談役」として在籍し続け、個室や車、秘書が付いていた。
と云うような状態だったそうです。つまりは、誰が偉いのかが、実際に要職にいる人でなければ力関係などわかるはずもなく、そうなれば企業の利益を第一命題とするのか、己の既得権益を第一命題とするのかは、株主からは判然としない事になります。

おそらく、東芝の粉飾問題や原発問題、さらにはこれから顕在化すると言われている米国の液化天然ガス事業などの意思決定には、上層部の権力維持としての統治でしか無く、企業の発展のための客観的な統治にはならなかったように思えます。

天下の東芝でさえ、僅か十数名の「支配者層」の意向で浮沈がかかってしまうわけです。

そもそも「コーポレート・ガバナンス」という考え方は、1960年代のアメリカにおいてはベトナム戦争でのナパーム弾の製造や公民権運動の流れの中で、気牛の倫理の問題として使われるようになったようですが、時代の中で粉飾や企業不祥事の隠蔽など、株主に対する不利益の排除として使われるようになってきたようです。

最近では、明治安田生命保険で「顧問」に就任していた文部科学省人事課OBである嶋貫和夫氏の同社での待遇が、「月2回の勤務で年収1千万円」とのことで、これが高級官僚と言われるエスタブリッシュメントの「その後」の通常の待遇のようです。

しかも、明治安田生命の根岸秋男社長は記者会見で「法人営業全般について指導や助言を受けていたが、報酬に見合うものだった」と述べているとかで、文部科学省と明治安田生命との関係(明治安田生命にとって文科省の役人をを受け入れるメリット)について、不明な点が明らかにされてはいませんが、少なくとも役人上がりのヒトが金融系民間企業の「営業」に関して助言ができるとも思えません。

ということは、明治安田生命においてすら「コーポレート・ガバナンス」は株主に対して、有効に作用していないことは明らかなわけです。

大企業において、こうしたことが普通のことのようにして起きている背景には、社長より偉い人が影で大企業を牛耳っているからのようです。

鎌倉時代の末期から南北朝、そして室町時代初期にかけて、天皇よりも偉い上皇がたくさんいて、その中でも一番偉い上皇を「治天の君」とする慣行がで来ました。

院制を敷くためには、自分の直系が天皇にならなければならず、そのためには「皇太子」を誰にするかで熾烈な争いが起こりました。挙句には、公家のための朝廷と、武家のための朝廷が考え出され、両統が迭立した時代もありました。

天皇が政治に関与してはいけないという決まりがあるらしく、引退したいと思っても、なかなか簡単に事が進みません。いまさら上皇が乱立して東宮選びで国家が二分するようなことが起こるとも思えないのですが、なかなか「有識者」と言われて木に登るような連中が、なかなか意思の決定ができない事を見ても有能を自負する人々の無能さを露呈しているような気もします。

やはり、企業(少なくとも株式を公開している規模の)では社長を辞めたら、さっさと会社を去ることが最良のようです。このことは総理大臣経験者も同様で、いつまでも国会議員として君臨しておらずとっとと野に下って辻で説法でもしていればいいように思います。

中には自分の趣味の自転車で怪我をしてそのまま半年も治療しながら議員をやめない元総理もいます。

これなども、自らがやめない限りどうにも規制できないのも、国家というガバナンスからみて、いかがなものかと思う次第です。ついでを言うなら、2期以上、総理大臣として君臨することも、ガバナンスとして実に不健全の極みのように思うのです。

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