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パティ・スミスとボブ・ディランとノーベル賞

さぼ郎
実を言うとあまりノーベル賞には興味がなくて、新聞やテレビで報道される程度の内容しか知りませんでした。

たまたま、ネットを見ていたら、パティ・スミスがノーベル賞の授賞式でボブ・ディランの歌を歌って、それが、緊張のあまり途中で声が出なくなってしまって、一部やり直した なんて書かれていて興味を持ちました。

パティ・スミス
パティ・スミスの記事にリンク ↑

で、その記事がこちらで、その歌が、このYouTube。



プロの歌手が緊張で声が出なくなるなんて、そういうことが起きるんだ と思うと同時に、そもそも「パティ・スミス」と言う歌手すら知らなかったので、そんなあたりからちょっと調べてみました。
「席に戻った時、失敗によって大失態を犯してしまったと思ったわ。でも、不思議なことに、その詩の世界に入り込んで、本当にその世界を生きているということを実感できた体験でもあったの」
オリジナルの歌がこちら。



詩の内容はとても難しくて、なんとも言えません。

I've been out in front of a dozen dead oceans
I've been ten thousand miles in the mouth of a graveyard

要するに反戦歌であって、戦場に出た息子を思う親の心を死にしているのだと思います。

先行した人の説明によると、いままでの音楽の中から、ボブ・ディランが、「その作品世界を通して、詩とはどういうもので、なにができるのかというわたしたちの概念を変えた」ことが、受賞の大きな理由だったようです。

1963年にレコーディングをしているようで、その頃にアメリカはキューバ危機を迎えていたというタイミングだったと、wikiに書かれています。

政治や産業界は、どうしても大きなお金が動く戦争をしたがるようです。ビジネスは「誰が」「誰に」「何を」「いくらで」で動いていくようです。

まさに、この構図はビジネスの構図であると同時に資本主義における政治の構図であるわけで、ノーベル賞の受賞者が何にいても戦争は無くなる気配がありません。

国家の安全のために戦争をし、国民の平和のために戦死者を出すことに、いささかも矛盾を感じない人たちがしでかす戦争というスペクタクルは、きっと人間に「欲望」と「競争」がある限り、地上から無くなることはなさそうです。

昨日が平和で、今日も平和だから、明日も平和 なわけもなく、突如として地震が起きたり、経済破綻が起きたり、国と国が争いを始めたりします。そうしないために政治・外交が有ると思っているのは、きっと愚かな平和愛好者の夢でしか無いのでしょう。

自分の親の世代の日常にあった「戦争」から71年も経つと、まさに夢幻のような気もしますが、平和を求める庶民の価値観とは異なる価値観の人たちの原理で世界は動いているのだと実感せざるを得ません。

“A Hard Rain’s A-Gonna Fall(はげしい雨が降る)”
そういえば、同級生の父親が、かの戦争で中国戦線で砲兵だったのだそうです。「激しい砲撃をし続けると、どういうわけか雨が降り出した」と言っていました。

ボブ・ディラン
A Hard Rain's A-Gonna Fall 和訳にリンク ↑

面白いもので、ボブ・ディランを取り上げたら、このような記事にも遭遇しました。

ボブ・ディラン
NHKの記事にリンク ↑

ボブ・ディランの歌が文学なのかの討論会が開かれたようです。自分的に言わせてもらうと、そもそも、「文学が何か」という論点と、それに「アワードを与える基準」にはきっと、整合がないと思っています。

いまだに美人コンテストのような馬鹿なアワードがあって、誰が一番きれいかと問われたとしても、そのことが「誰にとって」によって変わりますし、時代によっても変わります。

そのようなものに対して、ある種、普遍的価値をつけようとする人々のおごり、人類に対する僭越を感じてしまいます。

他のノーベル賞も似たようなもので、出がらしの学者(それもアングロサクソンに偏重している)に功績を褒め称えるのではなく、もっと若い研究者の可能性や希望に対して奨励するべきと思っています。

そもそも、北里柴三郎や鈴木梅太郎に与えることをしなかったノーベル賞そのものに疑問を持っています。ノーベル平和賞なんて、人類に対する冒涜のように感じています。

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