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あれこれ

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夏目漱石と東洋哲学

さぼ郎
そういえば、ちょっと前にNHKで夏目漱石のドラマをやっていました。見たいと思ったのですが、タイミングが合わなくて見てはいません。

話は前後しますが、知人が読んだ本で、とても良かったということで、中でも個々を読んだらいいということで、183ページから188ページをコピーしてくれました。

その本は「ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義 」という本で、コピーの部分を読む限り、著者が「荘子」について書いている部分のようでした。

ハーバードの人生が変わる東洋哲学

書評は芳しくありません。しかし、どんな本であっても丹念に読めば、その本を書いた人の世界に触れることはできると思うのです。それは、少なくとも自分という「」の世界とは異なる世界で、そこに踏み込むことができさえすれば新たな体験になるはずだと思います。

書評

ネガティブな書評の一般的な傾向として、書評を書いた人が著者の知見を上回っているという自負が見え隠れしているケースが少なくありません。なんでもそうですが、批判的に物事を受け止めようとする限り、自己の「」を超えられないと思います。

コピーしてもらった部分は、荘子の料理人の包丁さばきの部分だと思うのです。自分的には荘子には相当入れ込んだ時期がありましたが、そんな時期があったことは結果として自分の視野が確実に広がったと思います。

で、包丁人の話は、牛の解体を初めたころは、牛の外見の姿しか見ていないけれど、三年も経つと、やっと牛の外見へのこだわりがなくなり、部位ごとの違いが分るようになる。今となっては、目で牛を見ることはなくなり、牛がもともと持っている自然の構造に逆らわず、皮と肉のつくり、骨と肉のつくりに沿って刃を進めれば、骨に刃が当たることもなく、滑らかに仕事が運ぶ。

という話です。これは魚屋が魚をさばくのも、車大工が車輪を調整するのも、みな同じことです。有り体な言葉で言うなら「暗黙知」ですね。

著者は、この部分の説明をピアニストに例えて説明しています。

ピアニストはただピアノを弾くために練習してきたのではなく、その絶え間ない練習の成果として、世界との関りの中での自分のあり方を見つめることができるようになっている という説明です。

スポーツ選手が、考えるまでもなく最適な動きができるのは、すべきことを瞬間に察知するというより、より上位の感覚に身を任せることで、素晴らしいプレーを生むことができるわけです。

これらのことを通じて著者が言いたいことは、習熟することで見える世界が変わってくること。変わった世界に自分を置くことで、初めて見える世界、達成できる世界が、さらに変わってくること。それを東洋哲学的に「」として捉えようとしているのかなと思います。

そして、その世界との関わりの中から、自分の進むべき道が初めて開けてくるという世界観(あるいは、それを「」というのか)なのだと思います。

幼少の頃にピアノを習った人は少なくないと思いますが、そのピアノを通じて自分の世界の見え方が変わるほどに習熟する人は、きっとそんなに多くはないと思います。

ピアノ

別にピアノのことだけではなく、それが何であれ、知性や理性を踏み越えていく先に見える「世界」との関わりから、自分のあり方が見えてくることで、自分が豊かになっていくことを説いているのだと思います。

188ページに書かれていることなのですが、全く同じ現実でも、そのことの造詣が深くなることで違った経験ができるというわけです。

幼い子供と散歩するだけでも、子供の世界と自分の世界に違いがあり、自分を規定しているパターンから視点を変えることで「」というこだわりから離脱することが可能になるわけです。

そこで、冒頭の夏目漱石ですが、漱石はシェークスピアを実に丹念に読んでいるのだそうです。そして、欄外に 感想やら批評やらを書き込んでいるようです。

それは漱石という「」から発しているのではなく、逆にシェークスピアの持つ世界を知るために漱石という「」との対比をしているのだと思うのです。

うえの」という冊子があって、上野のれん会が出している冊子なのですが、その2016年12月号に「漱石と柿」というエッセーが掲載されています。

夏目漱石
wiki「夏目漱石」にリンク ↑

漱石が教師として熊本に赴任したとき、人力車で下宿に向かう途中、古本屋を見つけてそこに立ち寄る。河島書店というのだそうで、今でも有るようです。

そこの庭に「小春」という名前を持つ柿の木があるのだそうで、現在も実をつけるとのこと。で、漱石の蔵書の中に、明治45年農商務省農事試験所の「柿ノ品種ニ関スル調査」という書名があるのだそうです。

漱石も自分の「」から離脱した世界を探ろうとしているし、また、そうした漱石の足跡から、単なる漱石ファンでは知り得ない世界を探ろうとする人もいるわけです。

とはいえ、もらった表紙のコピーに「ありのままの自分なんてどこにもいない」と書かれているのですが、その部分のページのコピーはもらっていないのでなんとも言えませんが、ワタシは荘子の言わんとすることは、とどのつまり「自分の持ち前に適う自分になれ」だと確信しています。

たしかに「ありのまま」が決していいわけではないけれど、なりたくない自分になる必要も無いし、「自分の持ち前」が何なのかを早くに見つけられれば、さまよう時間を短くすることができますよね。

といいながら、自分は未だにさまよっています。自分は何をするのが自分の使命だったのかが、未だに見つけられないということは、邪念に惑わされているのだと思います。しかし、それとて、ありのままです。

出来もしないことをしようとしたり、自分に向いていることを素直に認めようとしていなかったりしてきたのだと、今更ながら反省していますが、遅きに失しています。



素直になれないのも、それもありのまま。みんなが上を向いて歩いていた時代は、昔の話。

今年の漢字は「」だとか。オックスフォード英語辞書が、2016年世界の今年の言葉では「post-truth」。

客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞だとか。イギリスがEUを離脱したり、アメリカでトランプが大統領として選出されている背景にあるものはpost-truth」なのだそうです。

真実の次に来るものは何か? オックスフォード辞書では「感情を動かす訴えかけ」だそうです。これって、ヒットラーの台頭を許したポピュリズムに直結しているような気がします。

しかし、感情ほど「」の世界に束縛されているものもなく、その個を高みに挙げるために知性を磨き、ある人は宗教に帰依してきたはずなのに、人類は再び同じ「」を歩もうとしているのでしょうか?

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