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取り組み

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宗教とお墓とお坊さん

さぼ郎
宗教を信じていない人が約7割。信じている人が2割。その他が1割というところでしょうか。

一般的には、いまの世代にはご先祖のお墓があって、そのお墓はお寺にあります。お寺は、仏教のいずれかの宗派に属していて、おつきあいにはそれなりにお金がかかります。

宗教観
「墓なし坊主なし」の記事にリンク ↑

記事では、記事を書いた父親が亡くなって、その顛末として坊主なし・葬式無しで火葬した事が書かれている。

葬式にしろ、お墓にしろ、葬式宗教は全て「金次第」になっていることは否めない。しかし、そうしたお寺との付き合いが生活の中でそれなりの位置を占めているならば、これは別として、檀家でもなく過去帳もないような付き合いになっているようなら、お寺と縁を切るというのもありかもしれない。

3.11の1、2年後、麻布にある大きなお寺のサクラを見物に行ったとき、倒れた墓標がそのまま放置されていて、縁者を求める張り紙がしてありました。

縁者が名乗り出なければ、お墓は更地にされて、次の人に貸し出されます。放棄された墓標をどうするのかは不明ですが、田舎のお寺などではピラミッドみたいにして集めてあるのも見かけることが少なくありませんが、都内ではめったに見ません。

ピラミッド

お墓が無縁になると、このような供養の仕方をするお寺も有るようです。「離檀」なんて言葉もあり、それなりにお金を取られるようです。

たまたま、室町の本を読んでいますが、足利義満は陰陽師を重用し、土御門有世という陰陽師は従二位までになったとのことです。

土御門有世は安倍晴明の12代目だそうです。本当は安倍有世なのだとwikiに書かれています。

後の土御門家を作ったと言われ、明治に至るまで日本の陰陽道のみならず天文・暦の世界を支配していく事になるのだそうです。

そもそも、義満にはその時代の人としては珍しいのか走りませんが宗教観は希薄だったようです。にもかかわらず、陰陽道を祭祀の中心に持ってきて、歴史上、最高に盛り上げたのは、神事が皇家に連なる行事であったため、比較的武家に陰陽道がもてはやされたというのも有るようですが、義満は中国を倣ったのだろうと言われています。

今の中国とは違って、かつての中国は、やはり日本の先生であった部分は少なからずあったのも事実と思います。また、明との交流による経済効果も、義満の権力維持を支えたわけですし、流入してくる金属貨幣による日本国内の流通や金融の仕組みも大きく変化していく事となります。

祭祀に関しては完全に朝廷祭祀を超える規模と予算で行ったようですが、今の陰陽道は、神仏に比べると、およそ影響力を持っていません。

ともかく、このように宗教にも流行り廃りが有るようで、権力者の意向によっても、大きく変化したようです。

平成の宗教のあり方にも、それなりに時代の変化という影響は大きなものと思われ、お寺とお墓、宗教観と祖先などへの変化は、時代や社会の影響を受けるのは仕方がないことと思います。

さらにいえば、お寺(あるいは宗教)が、どれだけの救いをもたらしているのかも考え直さなくてはならないことなのかもしれません。

とはいえ、浅草に有るGLA(God Light Association)という新興宗教も、立派な建物を幾つか保有して、信者が集まっていますが、進行する人がいなければ宗教とは言えカスミを食べているわけには行かないので、それなりの経済的バックボーンが有るのでしょうけれど、そのように、宗教が救いになっている人々も国民の2割もいるわけです。

一切の拘束が無いことが自由なのか、教義や経典を信条とすることに解放があるのかは、その人次第でありますが、どのように推移していくのかは興味のあるところです。

カミさんの実家のお墓は山のテッペンにあって、組合が共同で管理している墓地です。墓地には、宗教色はなく、それぞれの家で守っています。去年、カミさんの実家に不幸があって、浄土宗のお坊さんに山のテッペンまで登ってきてもらってお経を挙げてもらいました。

ワタシにとっては縁もユカリも無いのですが、多くの墓標を見ると、それはそれで、勝手に故人の人生はどうだったんだろうかなどと考えてしまいます。中には、天保の時代に94歳で亡くなったと刻まれている墓標などがあって、人々は、どのようであれ、このように生きて繋いでいくものであることを認識することも出来ます。

お墓が有るべきか、無いべきかは、即答できるようなことでもないわけですが、まず、宗教と切り離して考える事あたりから始めるのもいいかもしれません。

日本人の宗教観が希薄なことの原因としては、宗教そのものを知る(学ぶ)ことが無かったことも上げられます。神道は明治時代に捻じ曲げられてしまい、いささか敬遠気味でありますが、哲学としての宗教をもう少し学ぶことができれば、視野を広めることができるのではないかとも考えるところではあります。


昭和の写真

福岡・昭和34年の写真だそうです。お弁当の時間に雑誌を見ている子は、実はお弁当がなくて目のやり場に困るから本を見ているのだそうです。

戦争が終わって14年。東京オリンピックが後2年後。朝鮮戦争が終わって6年。

まだまだ、貧しさは日常の世界を覆っており、貧しいことはコンプレックスではなく、跳ね返すべき宿敵のようなものだったのかもしれません。そして日本は貧しさを跳ね返し、経済大国への道を歩むわけで、戦争、戦中、戦後を国を挙げて生き抜いてきた気力を感じます。

しんこ細工

この写真は浅草・昭和29年だそうです。真ん中の少年にセリフを付けるとすれば、何になりますか?

新粉細工といって、江戸時代後期からの大道芸だそうです。新粉を蒸して食紅で色を付けて細工をするのだそうです。当時8歳とすると、今健在なら70歳。

不足は不幸かもしれない。しかし、余剰も不幸であると思います。

少年

上田・昭和24年の少年たち。みんな親を助けて働いているけれど、明るい未来を感じさせる輝きがあったと書かれています。

日本が一番へこたれた時代から数年。あれから、60年経ったわけです。そしていまから60年経つと、お墓が有るなしは別として、大方は草葉の陰から見守ることとなっていますが、その頃の少年たちは未来を見て輝いているのでしょうか?

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