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「観念」について考えてみる

さぼ郎
瞬間を生きる。いまだけなのよ。

観念」を調べると「 哲学で、人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象。」のように書かれていました。

wikiには「プラトンのイデアは、客体的で形相的な原型のことであるが、デカルトによって、認識が意識する主観の内的な問題として捉えなおされた」のような書き方がされています。

また、「Object」と「Subject」の違いについても書かれていますが、意味が分かりませんでした。どちらの言葉も訳がたくさんありますが、あえて絞ってみるとObject」は「客観」で、Subject」が「主観」と云うような分類なのでしょうか。

冒頭の「瞬間」が「いま」であるというのは、厳然たる事実であるゆえに「いま」なのだと思います。しかし、昨日起きたこと、一昨日起きたこととて、記憶とは言え、事実であるわけです。

例えば1945年8月15日に日本が戦争に負けたことにも主観の要素はなく、事実であるわけですので、「観念」では無いとは思うものの、少なくとも、自分的な事実ではないので、その意味ではそのことに対する経験に基づく「主観」は形成されていません。

学習や伝聞から形成された印象も、広義の主観であるわけですので「観念」なのかもしれませんが、ここで取り上げようとしている屁理屈では、少なくとも事実であったことに対して「客観」か「主観」かをまとめてみようとしています。

小学3年の頃からの付き合いのガキ友と、年に1、2度、会うことがありますが、彼との出来事で記憶をよみがえらせることができるのは、その時々に於いて事実だったからですが、いまから半世紀以上も昔のことなので、ディテールは茫洋としていてかなり「主観」的な表象になっています。

が、その表象が有るから、いまでも昨日今日の知り合いとは異なる「やぁ~」といえば「お~」と返すことができます。相手が医者だろうが教授だろうが同じです。

とはいえ、記憶はとても曖昧で、起きた事実関係ですら時間が前後していたり、関わりのない出来事が挿入されていたり、逆に、欠落していたりしています。

何がいいたいかというと、かつて事実であったこととは言え、時間の中でそのことは「観念」になっていくということ。それからすれば、「事実」は「いま」だけになりますが、「客観」として認識できる「いま」は、決して「瞬間」ではない。

1分先、1時間先、1日先、、、。どこまでが「事実」なのかは分かりませんが、起こり得ることが空想ではない範囲までは「いま」として捉えることが出来ます。

となると、過去が「観念」になっていき、未来はそもそも「観念」でしか無いわけですが、客観として捉えることができる「いま」は、高齢になるに従って徐々に範囲を狭めていくことになりそうです。

蝶々

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

「荘周」は、荘子のことです。荘子が昼寝をしていたら夢の中で蝶々になった。蝶々になった自分は、志に適っていた。ところが、ふと夢から覚めてみると元の荘子であった。

そこで、荘子は考えるわけです。客体の有る荘子が見た「志に適っていた夢の中の蝶々」が自分の求めていることなのか、はたまた、そうした夢を見る実態のある荘子がやっぱり本当の自分なのか と。

夢を見る自分と、夢の中に現れた蝶々とは、実は分離できないのではないか と。

たとえば、いま、何かを強烈に夢想したとして、それが何年か後に、実際に起きた事実と混然としてしまったなら、自分にとっての事実とは、夢の中の志に適う蝶々と本質は変わらないわけです。

今年の春に友人を失いました。2010年の10月にも友人を失いました。失った友人たちは事実としては存在していませんが、ワタシの観念の中には存在しています。たまたま、会っていないときが連続しているだけに過ぎません。

実際に存在している人々も、「いま」は、ワタシにとっては物理的な存在ではありません。

つまり、実態のあることと、そのことを想起できることとでは、本質的な差異は、きっと無いのだと思うのです。

その昔、レイテ沖海戦において、戦艦武蔵の艦橋で栗田提督と一緒に「反転」命令を出す場面に夢で参加していたことがあります。その時、自分の中では栗田提督が、なぜ反転命令を出したかが分かったのですが、これは、単なる夢でしかありません。

経験したことを忘れることはあっても、経験していないことは思い出すことは出来ません。

子供は、その時点時点で常に現代人であり、また、未来人でもある。

手塚治虫さんの言葉だそうです。自分もかつては現代人であり未来人でもあったわけですが、いまとなれば、浪速のことを夢と思う天下人とも同じく、ほとんど過去人です。

だれでもが天下国家を治めることが志に適うことでもないわけで、荘子の一番重要なメッセージは「志に適う自分になること」だと思っています。それは各人の、事実と夢想がせめぎあい、妥協する了解点なのでしょうね、きっと。

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