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大正という時代

さぼ郎
浅草寺五重塔は、現在瓦の葺き替え工事をしています。焼き物の瓦からチタンの瓦に変えるのだそうです。本堂も何年も前に葺き替えしていました。

その五重塔の直下には伝法院という、本坊があります。お庭は、かの有名な小堀遠州の手になるらしいです。年に一度、公開していますが、騙されたと思って行ってみましたが、行く価値は十分にありました。



明治2年には境内の中から石棺が見つかったのだそうで、古墳時代からこのあたりは豪族が拠点にしていたわけです。

で、その五重塔の下辺りに「奥山」と言われる地帯があって、有名なところでは「花やしき」などがあります。花やしき」は嘉永6年の開園だそうです。

奥山
「錦絵で楽しむ江戸名所」にリンク ↑

奥山は「おまいりまち」などと称して、商店街が頑張っています。時代時代によっても違うのでしょうけれど、何かで読んだ「奥山」は、隠売女を置いた飲み屋があったとか、幕末の頃と思うのですが、「花やしき」に動物がいて臭かったなんて書かれているものを目にした記憶もあります。

奥山
「江戸時代の見世物」にリンク ↑

明治9年の錦絵のようですが、像が明治や江戸時代に見物できたら、見たヒトは驚いたでしょう。「大菩薩峠」で、興行師のお角が両国で像だったかキリンだったかの興行をかけるシーンがありますが、著者の中里介山は、「それを見た人たちの驚きは文字に表しようがない」とまで書いています。

詳しい以前後の話は忘れましたが、像が江戸に来て吉宗に謁見したことがあったようですが、江戸に来る途中で天皇に見せることになり、天皇に見せるためには爵位が必要との事で像を従四位にしたとか、こんな話も何かで読んだ記憶があります。

で、その五重塔の奥山の入り口に大正時代の写真が掲げてあって、誰か知っているヒトがいませんかと書かれています。これ、何年も前からずっと置かれています。

大正時代

大正12年に仮に40歳位とすると、明治16年ころの生まれですので、ちょうど鹿鳴館ができた頃になります。

逆にこの人達を知っているとすると、少なくとも昭和初期には生まれていなければなりません。今から100年も経っていないのに、およそ知っているヒトはいないわけです。

大正天皇は明治12年の生まれのようです。この天皇から一夫一婦制になったのだそうです。
学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校。この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話
も有るようです。

とはいえ、学習院を中退して家庭教師にしてしまったようです。大正天皇は漢詩の名人で1367首作ったそうです。二位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下。

ちなみに、「大正」という元号は、案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったのだそうですが、5度目の正直で、「大正」に決まったようです。

この時代は、明治の元勲たちが一掃される時代で、試験選抜された人々に権限が移っていく時代でもあったようです。大正天皇は大正10年から裕仁親王が摂政になったのだそうですから、昭和天皇は実質69年間、天皇職を努めたことになります。

新選組の斎藤一、永倉新八も大正に亡くなっています。

益田太郎冠者というヒトが作詞作曲した「きょうもコロッケ、明日もコロッケ」という歌は大正6年にヒットしたとのことです。カレーライスとんかつコロッケが大正の三大洋食なのだそうです(コロッケじゃなくてオムライスという説もある)。



どういうわけか、この歌詞、知っています。昭和の歌だと思っていました。ちなみに、子供の頃、コロッケは5円でした。

コッペパンが5円で、ジャムを塗ると10円で、それにマーガリンを付けると15円。

浅草橋に、「コッペパンカフェ」というのが出来ましたが、カフェでコッペパンを食べようという気にはなれません。小学校の時の給食で、おそらく一生分は食べたと思います。

大正4年生まれで101歳だそうですから、明治生まれなら105歳ですね。もう、明治生まれのヒトの話を聞くこともなさそうで、大正生まれでさえ、めったにお話を聞くことができなくなっています。

もっともっと、年寄りの話を聞けばよかったと思っているうちに、自分が年寄りになってしまいました。

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