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謙虚であることと善良であること

さぼ郎
昨日、キアヌ・リーブスというムービースターの話を見つけて、とっても感動しました。

キアヌリーブス
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謙虚」であることと「善良」であることを、その人に備わっているものとして極自然に振る舞えることって、なかなか目にしません。

それが、スターに上り詰め巨万の富を形成できるのに、必要とするだけ以外は、仲間や福祉に回してしまい、ゴージャスな住まいや車などを望まないことって、きっと自分なら、できることではありません。

ヒトとして生まれた以上は、人並みに「幸福」であるべきと思います。幸福のあり方は人それぞれで、大女優の息子さんのように、本能の命じるままに目の前の女性に飛びかかるのも、その息子さんに取っては「幸福」の有り様なのかもしれません。

その対極に「不幸」のどん底に落とされるヒトがいたとしてもです。

コンゴでは、鉱物資源を巡ってレイプが横行しているそうで、レイプした後に女性の性器を銃で撃ち抜いたり、とても悲惨なことが日常的に行われており、そんな女性たちを救っているデニ・ムクウェゲ医師の活躍に、ノーベル平和賞の期待もあったようです。

デニ・ムクウェゲ医師
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映画(「女を修理する男」)にもなったようです。日本も未だに韓国や中国と慰安婦問題を抱えていて、人間のサガなのか、戦場などの異常心理が、人間の本能に作用するのかは、その場にいたこともなく全く理解を超えていて、意見をいうことも出来ません。

靖国神社が、明治以降の、いわば新興宗教として法を侵さない限り宗教の自由があるわけで、誰を合祀しようがしまいが、関わりのない人間が口を出すべきでないのと同様で、ノーベル賞という私的な財団が誰にその栄誉を与えようが、かってにすればいいだけのことです。

自分なりに「幸福」を考えてみると、一つには情緒が豊かであることを上げることが出来ます。本居宣長のいう「もののあはれ」なども、煎じ詰めれば情緒に行き着くのだと思います。

情緒の豊かさと、キアヌ・リーブスのように、「謙虚」であることと「善良」であることは、きっと自分を「幸福」に導いてくれるだろうと思うのです。

また、幸福とはちょっと違うかもしれませんが、色々な本を読んだり色々な人と話をすることで、自分だけの世界だけからでは見えていなかったことなどに気がつくことがあったりすることが、やはり自分を豊かにしてくれると思ったりもします。

もちろん、物事を複雑に考えられることが「幸福」に繋がるわけではありませんが。

電通

さて、最近話題の電通ですが、「鬼十則」というの掟が有るようです。
  1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
  2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
  3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
  4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
  5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
  6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
  7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
  8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
  9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
  10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
この十則を守ることが、電通マンにとっての「幸福」なのでしょう。本当に人は様々です。
1936年には大手だった日本電報通信社と新聞聯合社(聯合)が政府によって強制的に合併させられ、国策通信社である同盟通信社が発足しました。これによって、日本の通信社は同盟だけとなり、政府の意向に沿った報道しかしなくなります。両社の広告部門については電通に一本化され、電通は同盟の傘下で国策広告代理店となりました。これが現在の電通の前身です。
こういう背景があって電通が独占企業になっているようです。アメリカでは、広告を出す側と受け入れる側に代理店が有るようですが、電通は双方を兼ねているようで、その得失がどうなのかは分かりません。
敗戦とともに同盟は解体となり、経済報道部門は時事通信社、一般報道部門は共同通信社、広告代理店業務は電通として再スタートを切りました。電通の大株主が時事通信と共同通信なのはそういった理由からです。
昨日もらってきた上杉家の本には十六箇条があるとかで、
一、心に物なき時は心広く体 泰(やすらか)なり
  (物欲がなければ、心はゆったりとし、体はさわやかである)
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
  (気ままな振舞いがなければ、愛嬌を失わない)
一、心に欲なき時は義理を行う
  (無欲であれば、正しい行い、良識な判断ができる)
一、心に私なき時は疑うことなし
  (私心がなければ他人を疑うことがない)
一、心に驕りなき時は人を教う
  (驕り高ぶる心がなければ、はじめて人を諭し教えられる)
一、心に誤りなき時は人を畏れず
  (心にやましい事がなければ、人を畏れない)
一、心に邪見なき時は人を育つる
  (間違った見方がなければ、人が従ってくる)
一、心に貪りなき時は人に諂(へつら)うことなし
  (貪欲な気持ちがなければ、おべっかを使う必要がない)
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
  (おだやかな心である時は、言葉遣いもやわらかである)
一、心に堪忍ある時は事を調う
  (忍耐すれば何事も成就する)
一、心に曇りなき時は心静かなり
  (心がすがすがしい時は、人に対しても穏やかである)
一、心に勇みある時は悔やむことなし
  (勇気を持っておこなえば、悔やむことはない)
一、心賤しからざる時は願い好まず
  (心が豊かであれば、無理な願い事をしない)
一、心に孝行ある時は忠節厚し
  (孝行の心があれば忠節心が深い)
一、心に自慢なき時は人の善を知り
  (うぬぼれない時は、人の長所や良さがわかる)
一、心に迷いなき時は人を咎めず
  (しっかりした信念があれば、人を咎めだてしない)

立脚点が随分と違うように感じます。何のためのルールなのか、誰にとって有益なルールなのか。

自分は自分なりの「謙虚」さと「善良」さで、ささやかな「幸福」を追求したいところですが、例えば「咄嗟」の判断で禍根を残すことって少なくありません。

謙虚で善良であるというような仮面をかぶっている限り、「咄嗟」の対応ができず、自分の無事や平安を考えることで出遅れることってありますが、「葉隠」が言うように、みんな、平安なのがいいのに決まっているわけですが、臆して禍根を残すならあとでバカ呼ばわりされたとしても死ぬほうがマシ と云うほどの心境にもなれません。

自己の狭い世界で波風立てないで、安穏とすることが「幸福」では、「謙虚」でもないし「善良」でもなく、いささか偽善の臭がします。

困ったものです。

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