PAGE TOP

をちこち

印刷する

仙台と札幌の旅《その2》

さぼ郎
千歳についたのが22時で、それから札幌に入り、地下鉄で2個めの駅から徒歩数分のアパホテルに連泊しました。

ホテルが空いていたのかシングルの価格でダブルの部屋だったので、ちょっと得した感じです。9月30日の札幌は結構寒かったのですが、ダブルの掛ふとんを半分に折って2枚がけにして使いました。

ということで、連泊しないでさっさと帰ればよかったのですが、10月1日は帰りの飛行機まで時間が余ってしまったので、まず、テレビ塔に登りました。

テレビ塔

昭和32年に内藤多仲の設計で作られ、昭和36年に松下幸之助の発案で松下電気産業が電光で時計を4面に設置しています。

大通公園
大通公園、西側を見ています。

逆側
東側、左下に見えているのは劇団四季の小屋

開拓使

開拓使の写真です。まだ、刀を差しています。明治2年に開拓使長官を命じられた東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)が函館に赴任しています。同行した佐賀藩士島義勇首席判官が函館では南すぎるとして銭函(いまの小樽)に開拓使の仮役所を作って札幌を設計したのだそうです。

しかし、島さんが予算を使いすぎるので長官の東久世さんと衝突し解任され、東久世さんは、岩倉使節団に随行して不在になり、その頃樺太開拓使時間だった黒田清隆が就任したようです。

写真の開拓使がいつの頃のものかは不明です。

時計台

札幌で有名なのが「時計台」ですが、正式名称は「旧札幌農学校演武場」で、農学校のことが展示されています。

クラーク
クラーク先生

新渡戸稲造
何したヒトかは詳しく知りませんが、有名な人です。

内村鑑三

有島武郎

時計

時計
ヤジロベイみたいのが振り子に合わせて
アッチコッチ行くことで歯車を前に
進めることで時を刻みます。

南極で置いてきぼりされても生き残ったタロとジローですが、子供の頃、生きているタロを観た覚えがあります。たまたまなのかはわかりませんが、時計台の傍にいたような、、、(植物園で飼育していたとのこと)。

昭和33年の2月に置いてきぼりにして、昭和34年1月に2匹の犬を発見したわけで、置いてきぼり自体にも非難が集まりましたが、生態系という観点からも批判をされました。

いまは、犬を連れて行ってはいけないことになっているようです。

用事が午後からなので、今はもう実家はないのですが、母親が生まれ育ったあたりに行ってみました。「山鼻」という町名で、1874(明治7)年から1941(昭和16年)年まで存在した村だったとか。

かつては未開の原生林に覆われ、アイヌ語で「ユクニクリ」(鹿の住む林)と言われた一帯だったそうですが、明治9年に東北地方から元士族240戸、男女1,114人が屯田兵として入植し、藻岩山の麓(端)だったことから「山鼻」になったそうです。

母方は会津の士族だったから、そのなかの1戸だった可能性があります。いとこが琴似にいるので、10月1日に尋ねて、そんな話でも聞こうと思って電話したら、千歳にいて孫の運動家を見物に東京に行くとのことで、入れ違いになってしまいました。

山鼻
札幌と山鼻

地図で見ればさほどのことはありませんが、歩くと結構あります。市電が通っているので帰りには市電を使いました。170円でsuicaが使えます。母親が子供の頃は、市電ではなく馬車だったそうです。

大正時代に電化していったようですが、冬は馬車だったりしたようです。

市電

これ、乗ってきたやつで、もっとモダンなのも走っています。これは、かなり古いタイプの車両です。

花
教会の庭で咲いていた花
教会にお庭に咲く花だと、なにがしら清楚な感じがします。

教会

エンブレム

ここから永山邸というのを見に行こうとしていたらサッポロビールの建物がありました。

サッポロビール

煙突

煙突
大正4年に石川島造船所が作ったと書いてあります。

レストラン
当時の貯蔵庫をそのままレストランにしています。

中が見たくて、チーズをレモンはちみつに付けてパンに乗せて食べるような軽食とコーヒーでお店に入って許可貰って写真を撮りました。

中川清兵衛
中川清兵衛

弘化5(1848)年、越後で生まれ、17歳で開港間もない横浜へ向かい、ドイツ商館に勤務する。程なく幕府の禁を犯して慶応元(1865)年イギリスへ渡航。

その後ドイツへ移り、1873年にベルリンビール醸造会社で修業し、厳しい職場環境の中でビール醸造の技術習得に心血を注いだ。

1875(明治8)年に日本へ帰国。当時開拓使管轄の札幌へ移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として貢献する。1876(明治9)年に開拓使麦酒醸造所は開業し、1882(明治15)年に開拓使は廃止され農商務省へ移管、1886(明治19)年に民間へ払い下げられ後に現在のサッポロビールとなった。

その後、小樽に移り旅館をやり繁盛していたようですが、利尻の窮状を見かねて投資し、元金も返済される見込みが亡くなり旅館を手放し、横浜に移り食道がんで1916(大正5)年に死去。

末期の水はサッポロビールだったそうです。マッサンは、明治27年の生まれで余市に大日本果汁を作ったのは実質1934(昭和9)年です。

それに比べて中川清兵衛が開拓使麦酒醸造所を開業したのが1876(明治9)年ですから、こちらのほうが、確実に古いし、こちらのほうも、ドラマ性がありましたね。

ということで、小樽と余市は、また、次回。

キーワード