PAGE TOP

取り組み

印刷する

知事選という戦いが済んで日はまた昇る

さぼ郎
東京都庁舎
「9時半からの都議による出迎えセレモニーはなくなりました。副知事などの行政サイドのみで行います」
「...なぜですか??」
「他の会派の先生がすべて参加されないとのことですので、行政主体のイベントになりました」
初登庁の小池都知事に対する自民党ら東京都連の仕打ち。他の会派は連動することもなかろうに、ボスの号令以下、右へ習いの様相。

そのボスも堂々と正面攻撃をすれば良さそうなものを、No.3に委任して敵前逃亡。このようなボスが作られると、周りは自虐的隷属をしだすので、ますますボスはそっくりかえる。

「流転の海」で中村音吉のセリフとして「百姓を兵隊にしてはいけない」という場面が有ります。百姓に権限を与えると、ここまで酷いことが出来るかというくらいなことを平気でやってしまうのだそうです。

本来、支配的な影響力で抑えこまれていた人々に、支配的な影響力を与えると、歯止めが効かなくなるのだそうで、ちょうど、派閥のボスとかになってエゲツナイことを言ったりやったりしているのを見ると、おそらく、支配的な影響力を持つべきでない人に影響力を持たせてしまった結果なのだと思うのです。

役人までもボスの意向の通りに自虐的隷属をしている。小池さんが、どうやって自民党東京都連というサル山のボスを突き落とすのかが見物。それが見たくて票が集まったようなもの。石原ボス猿でさえ、懐柔されてしまったようです。

ちなみに、自民党の東京都連には、小池さんと若狭さんの名前は、早くも削除されています。

こういうことって、ボスだかドンだかが指示しなくても、周りにいるお先棒担ぎがドンの起源を取ろうとしてやるわけで、選挙前に配られた「除名」をするというような文書も同様のことと思います。

自己増殖型の「」なので、できるだけ早期に絞り出さなければ、タマが変わるだけで同じことになると思います。それだけ政治とは金と権力を掌中にできるので、ゲスにとっては元から落ちるところまで落ちているから、議員とは気楽な商売のようです。

なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです。
(1944年8月1日 最後の日記)
アンネの最後の日記。

アンネフランク
wiki「アンネ・フランク」にリンク ↑

アンネの日記」は父のオットー・フランクが戦後まで生き延びて出版。母と姉は収容所で死亡。

アンネの日記」に関しては真贋を問う訴訟が起こっており、アンネたちを逮捕した元ゲシュタポを探しだし証言を得ている。

日本でも「アンネの日記」破損事件が最近起きました。理由は本人曰くでは、色いろあるようですが、理解を超えているのでコメントしません。

この時期になると「アンネの日記」とか「火垂るの墓」。火垂るの墓」は毎年見てしまいます。

火垂るの墓

古いアルバムを見つけて、生まれた頃の写真を見ると、親が喜んでいる写真があります。大正生まれの両親は、とっくに他界しているのですが、あの日あの時、親が描いたであろう「自分」と、今息している「自分」とで、どれほどの乖離があるのだろうかと、ふと思ってしまいます。

かくありたいと思う自分って、過去にあったのだろうか? 真剣に生きようとしたアンネには早い死が来て、かくありたいなどと強く望みもしなかった自分は、無為に歳を重ねています。

「私は産経新聞がなかったらたぶん政治家になっていなかった」と2015年11月に講演会で話している
稲田朋美防衛大臣。ワタシは産経新聞を読んだことはありませんが、ネットでたまたま産経新聞の記事を目にすると、とても気持ちが悪くなることが多いです。

稲田朋美
wiki「稲田朋美」にリンク ↑

ヒトとはかくも違うものなんだと感心しています。A級戦犯と戦争責任については、「A級戦犯がいたから日本が無謀な戦争に突入し、そして敗れたというような単純なものではない」としています。

防衛大臣にまでなった方なのだから、そのような一般論ではなく、どこに先の大戦の戦争責任があったのかを、ご自身のお考えとして示して欲しいと思います。

靖国神社に対しては「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」と述べているのだそうです。

靖国には246万6584柱が祀られていて、そのうち5万7千余柱が女性だそうです。稲田さんが後に続かないように祈るばかりです。

ちなみに、ワタシの田舎では神社には女性が地面より高いところに上がってはいけないとしていました。いまではお神輿だって担ぐ時代ですので、神社の側にこだわりはなさそうですが、神社の参拝に関しては男女平等ということなのでしょうか。

葉隠では、生き死にの場面で事の是非を問うと、「生きる」を選びがちになってしまう。それは、腰抜けである。その場に立たされた時、生き死にの是非を問うことなく死にさえすれば、あとで、馬鹿呼ばわりされたとしても、腰抜けとして一生後悔することは無い。よって、武士とは死ぬことと見つけるわけです。

葉隠

同じく葉隠では「恋」は、深く思っても相手に伝えたり、恋している素振りすら見せてはいけないのだそうです。相手に恋心を伝えようとして煩悶すれば、それは未練になるからです。

葉隠は主義主張ではなく、行動の規範になります。靖国参拝も主義主張なら煩悶が有るかもしれませんが、規範なら迷わず(一切の妥協もなく)参拝する事になります。

いずれにせよ、偉い人は大変ですね。これで、民進党党首が女性になれば、なんだか女性活躍時代が来ているような感じです。

まとめ

山崎闇斎は、

私がいて役割を担うのではなく、時と場合に応じた役割の総体が私

としています。そして「」の振る舞いには必ず「五倫」が備わると端的に表現しています。

その五倫とは、「父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友」という五つの人間関係で、その総体が自分であるわけです。

五倫

こちらは五輪。それぞれの色は世界5大陸「アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸、オセアニア大陸」だそうです。

全ては関係性であり、その総体であるとするなら、なぜいまだに「混沌」を払拭できないのかが、とても不思議です。

キーワード