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無差別智という理性界の、その先

さぼ郎
宮本輝さんは「流転の海」第八部「長流の畔」の後書きで「疲れ果てて倒れこんでしまうとき」そこで出会うのは毒虫かスミレかという選択があって、それは運命ではなく意思であるとしていますが、出会うのではなく、自らの意思以前の力によって、変化(へんげ)してしまう時 って、きっとありますよね。

毒虫

過去の職場で、ちょっとしたきっかけで毒虫に変化してしまった人たちを多く見ました。普通に生活している我々も、いかなる環境においても心にスミレの平安を保てるようにするのは「意思」でしかないのでしょう。

意思の前には教育とか社会とか、親兄弟、竹馬の友、恩師の薫陶などがあるかもしれませんが、とどのつまりは、それらを踏まえたうえでの自己の意思による選択になります。

しかし、石川達三の「生きている兵隊」とか、大岡昇平の「野火」。戦場の心理に於いて心にスミレを持ち続けられるのかは不明です。

また、思いもしない権力やお金を掌中にしたときなども、心にスミレを持ち続けられる自信はありません。

今朝、歩きながら莊子の「真っ直ぐな木から伐られる」という話を思い出していました。現代の「教育」は、真っ直ぐな木になることを目標としています。真っ直ぐな木に育ってノーベル賞取ったり、オリンピックでメダル取ったり、会社の社長になって大金持ちになったりすることを暗に推奨しています。

木

江戸時代なら殿様のために切腹したり、戦争になれば率先して特攻してくれる兵隊を作ります。

また莊子が、町の入口にある雑木を邪魔だとするヒトに「日陰を作っている」という寓話もあります。木だから板や柱にするという目的から「真っ直ぐ」であることを求められますが、目的を変えると有用性も変わります。

人間も同じで「学業」や「金儲け」を第一とする尺度が変われば、実は「優しさ」とか「思いやり」が第一の尺度になる時代が来るかもしれません。

数学者の岡潔さんは、「出世は修羅の道」といいます。そして「為すと為さざるは我にあり」が原則で、親や社会の干渉は、的確な判断ができるようにしてやることが教育の本源という考えなのだと思います。

にもかかわらず現実は、幼児のころから詰め込み教育が始められていて、本人の意思が芽生えたときには、本人の意思とはあまり関係のない「本人」が出来上がっています。
岡は仏教を信仰しており、特に山崎弁栄に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。
岡潔さんのいう「純粋な日本人」というのは、本居宣長が深く研究した万葉の時代の心を持つ日本人というような意味と思います。

岡潔
岡潔の記事にリンク ↑

岡潔さんが重視した日本人の特質は「情緒」だそうで、本居宣長の「もののあはれ」にも通じる気がします。

熊吾が、自分の識字の高さを思い返すと、幼少期にアカという牛の背にのって叔父さんのところで儒学を学んでいたことを想い出すシーンが第八部に書かれています。

若いうちに学ぶことがとても重要なわけです。

そういう熊吾は、心にスミレを持っていたかといえば、持ってはいたけれどそれは知性が働く間のことで、とっさには毒虫に支配されることが少なくなかったと思います。

岡潔さんの言葉によれば、
理性界におけるいろいろな流れ、たとえば数学・科学・教育・芸術などを、源を尋ねてさかのぼると、どれもとちゅうでわからなくなってしまいます。ここが理性界の終わり、宗教界の始まりです。この理性界の端に立って望み見た宗教界が、無差別智の世界なのです。
流れのはるか彼方には、理性界のそのまた先の「無差別智」の高山から流れ出てくる諸川が理性界にたどり着き、さまざまな認識を与えてくれていますが、意識は理性界だけで構成されているわけではありません。

宇宙の誕生や、生命の誕生など、理性界で解明することが出来るのかについて、個人的には非常なる疑問を持っています。

例えば物質も、素粒子を一生懸命調べていますが、更にその素粒子を構成している次元に入ると科学の世界では立ち入ることが出来ません。そこから先は理論の世界になってしまいます。

無差別智」は、なにも究極の科学者や宗教家だけの世界観ではなく、「理性」を持ってしまった生物である人間全てが持つ理性の根源だと考えると理解がしやすいのではないでしょうか。

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