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うひ山ぶみ

さぼ郎
うひ山ぶみ」を読みました。書いたのは本居宣長。
人類全てが「まことの道」を学ぶ必要があり、「まことの道」の正体を日本にのみ伝わる「天照大神の道」であると説く。その上で神道・有職・国史・和歌などの学問の道がそれを知るために必要であるとする。
と、このような解説を目にすると、自分的にはちょっと本居宣長というヒトの著作を読みたいとは思えませんが、この解説は根本的に誤っていると思います。

登山

うひ山ぶみ」とは、「初めて学問という山を登る人への道標」という、後進へ手を差し伸べているメッセージです。

いかならむ うひ山ぶみの あさごろも
浅きすそ野の しるべばかりも

学問の仕方」「古学の重要性」「理論よりも感情の優位性」などを、万葉集のような古来の日本人の生きざまを通して語っていると考えたほうがいいように思います。

いま、日本では憲法改正の機運が高まっています。「何があっても護憲」でもなく「何がなくとも改憲」でもないと思います。

そもそも、憲法とは何かを整理すると、いろいろな立場からいろいろな解釈がされています。

日弁連では「憲法は、国民のために、国民の権利・自由を国家権力から守るためにあるのです」のように書かれています。また、違うサイトでは「憲法とは国家の基礎となる法のことをいいます。つまり憲法とは国家のあり方を決めたルールのことです」のような表現になっています。

安保法政の解釈改憲の時に自民党から証人として呼ばれた長谷部恭男さんは憲法を「国の統治機構を決めたもの」として位置付けています。

イギリス

憲法の解釈をしようというのではなく、日本が日本であるために国際的には不可欠な法律ともいえるわけです。よく、イギリスには憲法が無いといわれますが、「無い」のではなく、
イギリスにおける憲法とは、議会決議や裁判所の判例、国際条約、慣習等のうち、国家の性格を規定するものの集合体である
としていて、憲法典という文字に書き起こした法文が無いというだけで、概念としての憲法はあります。

つまり、何が言いたいかというと、「国家」とは何か ということに繋がってくるわけで、国家があればこそ、国民があるわけです。領土内に住めば国民なのか? 日本語を話せば国民なのか? 国籍を持てば国民なのか?

というような観点からの国民論があるとすれば、本居宣長が提唱するような「山跡魂」を固めるために、
いにしへ人の、風雅(ミヤビ)のおもむきをしるは、歌まなびのためは、いふに及ばず、古の道を明らめしる学問にも、いみしくたすけとなるわざなりかし
という観点から、古事記を読解し、そのために万葉集を徹底的に研究するに至るわけです。それも学問的研究では限界を感じ、和歌を詠むこと(詠歌)から古の人々の「もののあはれ」を感得することから古事記を読むことができるようになるとして、古事記の注釈書「古事記伝」に35年も費やします。

宣長の考えの根底にあるのは、日本人を日本人たらしめている「原理」を説いているのだと思うのです。

神道も、儒教や仏教に押されて「言挙げ(つまりは文字化)」する際に、漢意に侵されてしまっているとしていますが、だからといって天照大神に通じる「」を再興しようとしているわけでは全く無いと思います。

神武天皇からの歴史を日本国憲法に反映させようと言う国会議員もいるようですが、、、。ワタシ的にはとても気持ちが悪いですが、神奈川県民は賛同しているようです。

古代日本人の心を素直に表現している万葉の歌を学ぶことから、日本人とは何か、日本とはどういう国家であるべきかを考えてみようとするのが、荷田春満-賀茂真淵-本居宣長までの「国学」だと言えます。

皇国史観とか尊皇攘夷に繋がる国学の系譜は平田篤胤からであって、その平田篤胤は本居宣長の門人とされてはいますが、宣長の没後に宣長の存在に気がついたというような関係で、実際には脈絡は切れているような気がします。
詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば功はなし。
うひ山ぶみ」の真骨頂は、学問の仕方、学びの仕方を説いています。仕方は関係なく、学び続けることが肝要であるとしています。それは、成果を求めるための学問であってはならず、己のための学問であるべきとしているのでしょう。
又、人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才・不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されど、大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也。
学問をする上で才能の有る・無しをどうこうしても、どうにかなるわけではない。そんなことより、ひたすら続けることに(その人にとっての)意味があるとしています。学問は頭の良い人だけのものではないということ。
又、晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外、功をなすことあり。又、暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも功をなすもの也。されば、才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて止むることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるるは、学問に大にきらふ事ぞかし。
思ひくづをれて止むることなかれ」。学ぶ上で、理解が出来ずに挫折してしまって、そこで匙を投げてしまうことは絶対避けなければならないとするこのフレーズは、学問を学者の手から市井で学ぶ者達に光明を与えている大きな言葉だと思います。

宣長に大きな影響を与えた契沖は、「後世の学者の注釈にだけ頼っていると本当の姿を見失う」と指摘しています。何かを学ぼうとすると、参考書や手引書を元に、そこから摂取することだけを考えてしまいますが、あくまでも参考にするだけで、自らが調べ、考え、そして到達することが重要なことです。

学問

宣長が主唱する「古学」あるいは「国学」は、単なるナショナリズムへの回帰というようなケチ臭い話ではなく、根源を辿ろうとすること、そのために学び続けること、そこから摂取できることから自分の感情に「素直」を取り戻し、「もののあはれ」を感得することが、日本人としての古学びの真骨頂ということになります。

それはなんのためかと言えば、自己に素直になることが、自分を一番幸福にしてくれるからじゃないでしょうか。

自分を主張すること、論理的に思考すること、金儲け

世間的には株があがるとか下がるとか、資産運用とか、インフレやデフレなどという「実学」が生きる上で不可欠で、文学などという「虚学」がいかに低劣かという風潮があります。

安倍内閣も大学の文系を廃止しようとしているという噂もあります。
教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言
実学

現代を生きる上で「実学」はとても重要な事ではありますが、それよりも重要な事は、自分とは何かを考え、そこに寄り添うことから得られる喜びを感じられるか じゃないでしょうか。

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