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三浦按針の話《10》

hiroshi
按針塚のある逸見は、日本で唯一外国人・按針が領主として治めていた歴史上重要な町です。

按針の屋敷は、『新編相模国風土記稿』に「村の中程浄土寺の南にあり」と記されています。

史料「相中留恩記略」
(安針屋敷が記載されている)
逸見村


浄土寺(按針の菩提寺)
浄土寺

鹿島神社
屋敷がこの付近にあったと言われています
鹿島神社

地図

さあ、「按針の里」逸見にある按針ゆかりの史跡を実際に見に行きましょう。

スタートは、京浜急行「逸見駅」です。駅を降りたら最初に訪れるのは、『浄土寺』です。按針の菩提寺で、按針ゆかりの宝物があります。住職さんに頼んで見せてもらうといいでしょう。

ここの住職さんは、按針研究家でもありますので、わからないことがあったら聞いてみましょう。

ここからは、せっかくですので『古道浦賀道』を行きましょう。幕末に活躍した坂本龍馬が浦賀に黒船を見に行くときに通った道と言われています。

浄土寺を出て右へ10メートルほど行くと『鹿島神社』があります。ここに按針の屋敷があったといわれています。江戸時代初期の250石の領主の家とはどんな家だったのでしょうね・・・・・・・・。

日本の妻「雪さん」と二人の子ども、お付の家来も何人かいたのかもしれません。調べてみたくなりませんか。

ここからしばらく、西逸見の町の中を通っている浦賀道を行き、急な階段をハアハアしながら登ると県立塚山公園に着きます。『按針塚』は、公園の中央にあります。

登り口に按針塚はここにありますとアピールしている『安針標石があります。階段を上ると、右側に『安針石碑』が、正面に『按針塚』が見えてきます。

フィールドワーク

1604年ごろ、家康は按針に洋式の外洋船を建造するよう命令を出しました。

はじめ船大工ではないので船をつくる十分な知識がない旨を伝えて断っていたものの、家康の「できるだけ最善を尽くせばよい」と言われ造ることにしました。

浦賀水軍の総帥・向井将監と伊東の船大工を使って松川河口で造りました。

伊東

最初に完成した80トンの帆船に試乗した家康はその出来栄えに感服し、その後120トンの大型外洋帆船を造るように命令しました。

80トンの船は、日本の沿岸測量に活躍しました。

伊東

また、完成した120トンの大型外洋帆船で按針は都(京都)から江戸まで航行をしています。

この船は外房で難破したマニラ総督に貸し「サン・ヴェナ・ベンツーラ」と名付けられて太平洋を横断し、メキシコのアカプルコへ到達しました。日本で建造されて太平洋を横断した初めての船です。

アダムス

1605年、按針は家康に自分と仲間の帰国を願い出ました。按針の帰国は認められませんでしたが、船長と1人の船員の帰国が許され、平戸の領主松浦家の船で平戸を出帆しました。

その結果、1609年7月1日オランダ船が平戸に入港し、直ちに駿府の家康のもとに使節を送りました。家康より朱印状の交付を受け、平戸にオランダ商館(館長スペックス)を設立することになりました。

平戸

また、1613年6月12日英国船、セーリスを艦長とするクローブ号が平戸に入港しました。セールスは按針を伴って駿府の家康と江戸の秀忠のもとへおもむき、家康より朱印状の交付を受け平戸にてイギリス商館を設立し、コックスを館長としました。

按針も商館に勤務することとなり、木田弥次衛門宅(按針の館)を住まいとし、在宅中はイギリス国旗を揚げていました。平戸は堺の商人など多く集まり“西の都”として栄えました。

1620年5月16日、56歳にして病に倒れここで亡くなりました。

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