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三浦按針の話《4》

日本到着までの苦難の航海

hiroshi
1598年6月24日、5隻の艦隊でオランダ、ロッテルダムを出航した船団は、イギリス海岸に直航し南下、アフリカ大陸の西海岸に向かいました。

出航の時期が遅れたのと熱帯地方特有の気候のため多数の船員が病人になり、8月21日ヴェルテ岬沖のサンチャゴ島に錨をおろしました。病人を上陸させたが多くの病人が回復せず死にました。

食糧も手に入れることができないまま、9月15日ここを出航しました。

南緯3度の地点でホープ号の艦長ヤコブ・マフが病死し、このためリーフデ号艦長シモン・デ・コルデスがホープ号に移って船団の司令官兼艦長となりました。このためアダムスは、リーフデ号に乗り移りました。

食糧と水を求めてゴンザルヴェス岬に上陸、病人を上陸させたがあまり良くならなく食糧を見つけることもできませんでした。12月21日出航しブラジル海岸へと航路を向け、途中アンノボン島で80戸ほどの町で武力行使、食糧と水を補給しました。

12月29日、出航しマゼラン海峡目指して航行を続けました。

1599年4月6日、マゼラン海峡に到着しました。司令官はここで水と薪を補給し冬季のため9月24日まで越冬することにしました。

この期間にほとんどの食糧を食べつくし多くの船員が飢えて亡くなりました。

ヘローフ号はここから本国へと帰って行きました。約6か月間の滞在の後、9月24日出航し太平洋へ向かったが大暴風雨にであって船団は四散してしまいました。

按針
按針

嵐や悪天候で艦隊がバラバラになった場合、チリ沿岸の46度地点で30日間待つようにとあらかじめ決めていたので、その地点に向かい9月29日に到着しました。

28日間停泊したがほかの艦船と会うことなく、モチャ島に向かいました。モチャ島の近くの岬に停泊して食糧の補給のために船長と23人の船員がマスケット銃を構えて上陸しました。

しかし、1000人以上の現地人に攻撃され殺されました。このとき弟のトーマス・アダムスも入っていました。

大きな悲しみにくれている中で、サンタ・マリア島へ向け出航しました。サンタ・マリア島で、旗艦ホープ号と出会いました。そして、これからどうするかを話し合いました。

そこで積荷の毛織物はモルッカ諸島や東インド諸島では暑いために評価されず、日本では高く売れることが話されました。そこで、日本へ向かうことになりました。

1599年11月27日、南緯46度地点からチリ沿岸を離れ、日本へ向け出発しました。

航路

数カ月間、赤道を通過するのに適した順風にめぐまれました。北緯27度あまりに達すると、激しい嵐に遭遇し2月24日、またもや旗艦を見失い、その後もう二度と旗艦を見ることはありませんでした。

3月24日、ウナ・コロンナ島(※小笠原諸島と思われる)に達し、 
4月19日、日本の豊後国、臼杵藩、佐志生に到着しました。 

---続く

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