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歴史的

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比叡山実因僧都強力のこと第十九

さぼ郎
今は昔、比叡山の西塔に実因僧都と云う人有りけり。小松の僧都とぞ云いける。顕蜜の道に付きて止む事無かりける人也。其れに、極く力有る人にて有ける。

空海は、顕教と密教を次のように区別した。
顕教
衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。
密教
真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。

僧都昼寝したりけるに、若き弟子共、師の力有る由を開きて試んが為に、胡桃を取り持て来て、僧都の足の指十が中に胡桃八つを交みたりければ、僧都は虚寝をしたければ、打任て交まれて後、寝延びを為る様に打ちうむめて足を交みければ、八つの胡桃一度にはらはらと砕にけり。

而る間、天皇の、僧都内御修法行いける時、御加持に参りたりけるに、伴僧共は皆通りにけり。僧都は暫く候て夜打深更る程に罷り出けるに、

「従僧童子などは有らむ」

と思いけるに履物許りを置きて、従僧童子も見えざりければ、唯独り衛門の陳より歩み出でにけるに、月の極めて明らかなれば、武徳殿の方様に歩み行きけるに、軽らかに装ぞきたる男一人寄り来たりて、僧都に指し向かいて云はく、

「何ぞ独りは御はしますぞ。負われさせ給へ。己れ負いて将て奉らん」

と云ければ、僧都、

「いと良かりなん」

と云いて、心安く負われにければ、男掻き負いて西の大宮二条の辻に走り出て、

「此に下り給え」

と云えば、僧都、

「我は此えや来むと思いつる。壇所に行むと思いつる」

と云いければ、男さばかり力有る人とも知らで、

「只有る僧の衣厚く着たるなり」

と思いて、「衣を剥む」と思いければ、あららかに打ち振いて、音をいからして、

「何でか下りずしては云うぞ。和御房は命惜くは無きか。其着たる衣得させよ」

と云いて、立ち返えらむと為るに、僧都、

「否や。此くは思わざりつ。『我が独り行くを見ていと惜しがりて負いて行かんと為るなめり』とこそ思いつれ。寒きに、衣をこそ、え脱ぐまじけれ」

と云いて、男の腰をひしと交みたりければ、大刀などを以て腰を交み切らむ如く、男堪え難く思えければ

「極て悪く思ひ候いけり。過ち申さむと思い給えるが愚に候ける也。然らば御わしますべからむ所に云い奉らむ。腰を少し緩べさせ給え。目抜け、腰切候ぬべし」

と術無気なる音を出して云ければ、僧都、

「此くこそ云はめ」

とて、腰を緩べて軽く成して負われたりければ、男負い上げて、

「何ち御わしまさむずる」

と問えば、僧都、

「『宴の松原に行て月見む』と思いつるを、汝がさかしくて此へ負いていて来れば、先づ其にいて行て月見せよ」

と云ければ、男本の如くに、宴の松原にいて行にけり。

其にて

「然らば下させ給ひね。罷り候いな」

と云えども、尚免さずして、負われ乍ら月詠めうそ吹て、時かわるまで立てり。男詫ぶる事限りなけれども、僧都、

「右近の馬場こそ恋しけれ。其へいて行きて」

と云えば、男、

「何でか然までは罷り候わむ」

と云て、只に居るを、僧都、

「然らば」

とて、亦腰を少し交さみにければ、

「あな堪え難き。罷り候わん」

と詫び声に云いければ、亦腰を緩べて軽く成にければ、負い上げて右近の馬場にいき行きにけり。其にて亦負われ乍ら、無期に歌に詠めなどして、其より亦

「喜辻の馬場にて下り様に永く遺らむ。其にいき行け」

と云へば否ぶべくも無ければ、詫びて亦いき行きぬ。其より亦云うに随いて西宮へいき行きぬ。此くの如しつ、終夜負われつ行て、暁方にぞ場所にいて返りて去りにけり。

男衣を得たれども、辛き目を見たる奴也りかし。此僧都は此く力ぞ極く強かりける、となん語り伝へたるとや。

宴の松原

宴の松原
wiki「宴の松原」にリンク ↑

承和元年(834年)には、空海によって松原の南東部に真言院が設けられた場所で、887年に松の木のしたで女性が鬼に殺されたとのことから鬼や妖怪が出る場所として恐れられていた。

右近の馬場


平安京の北にあった。

喜辻の馬場
「下る」といっているので南にあったと思われる。


久々の今昔物語です。

お坊さん
wiki「隆円」にリンク ↑

小松僧都
中関白藤原道隆の息男、姉妹に一条天皇中宮定子・三条天皇東宮女御原子らがいる。

一条天皇中宮定子は清少納言が仕えたひと。

「三后」のうち、太皇太后、皇太后、中宮全て占められていたため、道隆がむりやり中宮を増やしたので反感を買ったとのこと。

小松僧都が力持ちであったかは、ちょっと調べただけでは不明。

姉の定子が不遇の中で死去した時、雪の中を徒歩で葬送に参加した記録があるらしい。

ふるさとに ゆきも帰らで 君ともに
同じ野辺にて やがて消えなむ

藤原行成の書を清少納言から貰ったこと。
妹原子所持の父遺愛の笛を自分の琴と取り替えようと持ちかけ、姉定子に洒落で軽くたしなめられたこと。

また、弟の 伊周が花山院闘乱事件を起こすことで定子は落飾します。 伊周が好んで通っていた女性のうちに花山法皇が通いだしたので、 伊周が法皇を襲うことから大事件になり、定子の目前で逮捕され兄と弟が左遷されます。

花山法皇が通っていたのは伊周の好きな女性とは別の女性だったのですが、法皇に弓を放ってしまったため定子はとばっちりを食ったわけです。

定子落飾後に内親王を産みますが、一条天皇がどうしても内親王に会いたがって夜来て朝帰るという思いの深さであったようです。

夜もすがら 契りし事を 忘れずは
恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

定子の遺詠だそうです。百人一首に採られています。「私が死んだ後、あなたが恋しがって流す涙はどんな色?」というような恋歌ですね。

枕草子」の「香炉峰の雪」の場面での定子と清少納言とやり取りは、まさに、日本文学の最高峰であると同時に、当時の女性の教養の高さ、そして一条天皇が落飾した定子に通いたがるほどの恋心を感じます。

川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの記念講演の中に「枕草子」という言葉があったそうですが、翻訳されたときには「The Pillow Book」となったようです。

もし、今の世に清少納言が行きていたなら、絶対にノーベル文学賞をもらえなかったでしょうね。

所詮、文学に賞を与えること自体が間違っていると思います。それは芥川賞だろうが直木賞だろうが同じこと。

そんなものもらってやにさがること自体、文学の心から離反している邪悪な営みのような気がします。ーーー2018.1.31追記

「香炉峰の雪」とは定子が清少納言に「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と問いかけたら、清少納言が「御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ」という下り。

白居易が香炉峰の山裾に左遷されて隠遁生活を余儀なくされた時に読んだ漢詩の1行が「香炉峰雪撥簾看」で、それを真似て簾を上げてみせたわけです。

定子が14歳で一条天皇11歳の時に入内したのだそうです。いまから千年前の人の存在のぬくもりが感じられます。

2015.9.19追記
定子が23歳の時に一条天皇は8歳年下の藤原道長の娘・藤原彰子が入内します。彰子に使えたのが紫式部です。

この逸話に対してなのだと思いますが、紫式部が「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人」などと言って攻撃します。

定子は、藤原道隆の子供です。道隆の死後、道長が君臨したため、定子の産んだ男子が天皇にはなれず、藤原彰子が産んだ男子が後一条天皇、後朱雀天皇になります。

定子の弟が失脚したのも道長の陰謀であったようです。

彰子には、なかなか子供の恵まれず24歳で死んでしまった定子の子供の
敦康親王を引き取って育てていたようですが、男子を産んだことで流れが変わってしまいました。

敦康親王は『大鏡』に「御才いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記されているそうですが、父親の一条天皇は道長に遠慮して立太子になれなかったようです。



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