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あれこれ

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(九)第二の人生の発見と始まり

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戦後の祖父や祖母の時代は、何の病気かも良く分からず、癌で短い人生を終えていたものであったが、昭和50年代以降もしばらく癌は不治の病として重く扱われてきた。

今日では、検査技術、治療技術が進歩したことにより、癌は死への宣告ではなく多くの方が患う大病の一つで、癌への響きも大きく変化している。人がその人生を終えるとき、事故による突然死や、病名も寿命も分からず逝ってしまうことは、何れも本人にとって不幸であり、多くの人が望む方向とは大きく違っている。

佐野裕二が友人に自分の重い病状について連絡すると、十人中九人は
「俺も数年前に○○癌になって5年目だけど元気だよ」
「世の中半分の人が癌になるからそれ程特別なことではないよ」
「俺は癌と戦わずに上手く付き合って生きているよ」
「癌になって少し優しくなりこれまで以上に人のためにと考えるようになった」
「少し細い人生になったかもしれないが、毎日を楽しく過ごせるようになった」
などの比較的前向きな返事があった。

それは、自分の生死を意識し過去を振り返り、将来の夢や現実を真剣に考えることにより、自分の存在を再認識する言葉であった。そのためお互い重い共通点を知り、裕二もこれまでより親しくなった友人は多い。

一方で、有名大学付属病院に入院し手術をした患者の家族友人で、大きく治療が期待を裏切った場合、病院の実験台になった、若い医師の練習台になったと言う方も存在する。

もちろんそれを全否定する訳ではないが、仮にそうであったとしても信頼していた主治医の判断であれば、患者はその治療を認めなければならないのだろう。

病院、主治医、医師との信頼関係を運不運で片付けてはならないと、多くの体験談を聞き裕二は思った。

二度目の肝動脈塞栓術が終わり退院時に理解できたことではあるが、最初の入院である2014年年末にアマチュアオーケストラのヴァイオリニストである裕二の友人である島田君と彼の奥さんが一緒にお見舞いに訪れてくれた。

島田君はこれまで奥さんのことを話したがらなかったので、周囲の関係者も良く知らないところであったが、車椅子の奥さんを見た瞬間その理由が分かった。

結婚当時は何ら前兆はなかったが、間もなく関節のリュウマチである難病にかかり、車いす生活を余儀なくされた。少しでも安定した家庭生活を続けるために、奥さんは、お手洗い、食事、風呂は自分で行えるようにしているそうである。

島田君は、希望ある結婚生活が一変し、奥さんの看病が中心の生活となったが、奥さんはそれに甘えるだけではなく、可能なことは自ら行い役割を分担しているのである。

それは、三人の会話のなかで奥さんが島田君に迷惑を掛けている雰囲気がなく、十分自己主張できる理由である。そのように、島田夫婦は若くして新たな第二の人生を始めていたことに裕二は気付くのであった。

一般的に、癌は逝くまでに一定の時間が存在し、本人や家族が準備する時間が与えられることだといわれているが、裕二はむしろ本人に第二の人生を悟らせることの方が重要ではないかと感じるようになった。

裕二が最も敬愛し、自信を与えてくれ人生の先輩である友人安田源一がいる。

安田さんとは良くお茶をする仲で、会えば5時間~16時間もの長時間に渡り私に知識と知恵を与えてくれた友人であった。

しかし、安田さんは2011年、膵臓に癌が見つかり手術をすることも叶わず62歳で亡くなった。

病気であることをひた隠し面会も拒絶したために、ご家族以外の誰も詳細を知らない状態で逝ってしまい、裕二も喪中のハガキで4か月も後になってから知った次第であった。

これは、重い病状のための残された時間の過ごし方だったのかは分からないが、大変残念でならない。個人の人生感が重要であるが、生死を意識する大病に遭遇した訳であるから、新たな第二の人生を得て欲しかったと思わずにはいられない。

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