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あれこれ

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宿命と運命

さぼ郎
さてさて、昭和29年もののギザ十ゲットです。

ギザ十

昭和29年ものです。青函トンネルの起工式が1月に行われています。3月には第五福竜丸が被曝しています。7月1日に自衛隊が発足しています。いまや、「国防軍」寸前ですね。9月に洞爺丸が沈没しています。

ということで、本文です。

なにかヒトにとって危害や損害を与える背景には、
故意
過失
不可抗力
のどれかが作用しています。故意だと犯罪。過失でも犯罪として扱われますね。違う言葉で表すなら、「事件」と「事故」の違いでしょうか。「不可抗力」となると、天変地異のような、人の叡智では回避できずに発生する性質のものです。

例えば、地震で損害が発生するのは「不可抗力」ですが、その地震で家が壊れたり原子力発電所が破壊されるのは、不可抗力」とだけでは済ますことができません。

なぜなら地震が起こることを前提として建設されているはずなので、「故意」でない限り、どこかに「過失」があったはずです。

食品の例でいうと、期限の切れた肉などを混入させることは「故意」であり「犯罪」になります。過失は、製造機械の部品や虫が食品に混入したり、添加物の種類や濃度を間違うことなどでしょうか。

では、「不可抗力」はどんな場面かというと、発癌性の影響がないとされる添加物を複合させることで、腸内環境が悪くなったり味覚が変容したり、思いもしなかった影響が出たとしても、国が許可している添加物を指定容量以内の使用である限り、どれだけの種類を使ったとしても経年変化であったなら「不可抗力」とせざるをえません。

ニーバー
wiki「ニーバー」にリンク ↑

アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが作ったとされる「祈り」は、
O GOD, GIVE US
SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM THE OTHER

神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

さて、この詩をどのように理解し、自らの規範に取り込むことができるのでしょうか。

食品でいうなら、パッケージの裏書に注意を払い、極力、コンビニ弁当やコンビニ惣菜、袋菓子などではなく、煮たり焼いたりして作る生活に「変える」ことはできます。

新国立競技場の紆余曲折や安全保障法案などの成立をみると、ニーバーの「祈り」にとてもマッチしています。

変えるものを変える勇気(利権構造を組み直す勇気?)で新国立競技場を白紙にしました。憲法違反の疑いがほぼ確定している安全関連法案は、参院も自公が圧倒的多数だから、国民的には変えることはできないので、我々は受け入れるだけの冷静さが必要です。

時々、まことしやかな顔をして御用学者が安全保障の重要性を訴えている姿を目にしますが、安全保障を軽視しろというのではなく、憲法にてらして解釈改憲が限度を超えているかどうかの話をしているわけです。

選挙

どうしても政治的主張として貫き通す覚悟があるのなら、憲法改正を訴えて解散総選挙をするべきじゃないのでしょうか。

しかし、有権者は、この体制が本当にいいのかは考えなければならず、変えるべきか、変えざるべきか識別する知恵が欲しいわけです。

翻って、このような生臭い政治の話などではなく、それが「宿命」だったらどうなるか。

8世紀のインドでは、
困難が我々を襲った時、克服の方法があったなら、
落ち込まないといけない何の理由があるだろうか
もし助けになるものが何もないなら
落ち込むことが何の役に立つだろうか

という詩があるようです。

ニーバーの祈りも、インドの詩も、「宿命」と「運命」を語っているともいえそうです。

宿命」は、宿っている命であって、いかんともしようがないものであるのに対し「運命」は、運ぶ命であるがために、運ぶ先によって変えることができるわけです。

しかし、文字に書くといかにもそれらしい感じになりますが、「宿命」と「運命」には明確な境界線がないことが多いわけで、それゆえに、変えられるのか、変えられないのかすらも容易に識別できないわけです。

努力すれば補えるのか、どうしても克服したいのに努力ができないのはなぜか、助けになるものは本当に何もないのか、他人と自分とでどうしてこんなに違うのか。

ハンナ・アーレントは、こうしたことに使うのが「思考」だといいます。生物の成り立ちなどを考えると、ヒトの知性が宇宙や生命の神秘を解明するためのものではないことがよくわかります。

DNAなどは発見するだけでもノーベル賞ものだったくらいで、仕組みを解読はしたようですけれど、そこから何かが引き出せているわけでもありませんし、できたからといっても限定的です。

ヒトの知恵は、ヒトという種の保存にとって必要だから備わっているわけです。その知恵を求める真の理由は、

So that I may be reasonably happy in this life.

ということになります。さて、「reasonably happy」をどのように訳しますか?

幸福

正当な幸福」「無理のない幸福」「妥当な幸福」「理由のある幸福

アナと雪の女王」というアニメが流行りました。私は見ていませんが、歌詞を調べてみると「ありのままの自分になる」ということらしいです。「ありのままの自分」になるというのもイメージ的にはよくわかりますが、個々の人が「ありのまま」に生活をしだせば社会は瞬時に崩壊します。

白雪姫

権力も同様であって、最高権力者が「ありのまま」に政策を実現しようとして憲法を軽視するということは、主権者を軽んじている証左であることは間違いのない事実です。

国家とは何で規定されているかといえば、国境でも民族でも言語でもなく、憲法によって規定されているわけです。その憲法を解釈で変えてしまうということが許されるならば、主権は政府にある(つまり独裁)ということになります。

幸福

常にヒトたるもの、自己にとっても他者にとっても「最大幸福」を目指すべきと思うのです。それが専守防衛であり積極的平和主義であり、戦争放棄だったはずじゃないのでしょうか。稀に「最少不幸」なんてのたまっていた宰相もいましたけど。

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