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あれこれ

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光林寺、古河市兵衛を訪ねて

元麻布ヒルズって、男根信仰?

さぼ郎
ということで、また、光林寺に桜を訪ねに行ってきました。光林寺の桜の散り際を見ながら、古河市兵衛さんのお墓に詣でようということです。

光林寺

光林寺

3月29日は、門の後ろに控えている壮麗なる桜の木は満開でしたが、ヒュースケンのお墓の後ろの桜は、まだまだでした。本日、4月4日の桜はというと、12分咲きと言った感じで、それはそれで、とても荘厳な桜吹雪を鑑賞することが出来ました。

花

光林寺の桜

枝垂れ桜
枝垂れ桜

古河市兵衛さんのお墓もすぐに見つかりました。

古河市兵衛

嘘か本当かは知りませんが、後妻の為子さんが入水自殺したと書かれている記事もあります。正妻3人、妾10人などと書かれている記事もあるのですが、市兵衛のプライベートを詳しく書いた記事は殆ど見当たりません。

明治時代の傑物の伝記のような本にも古河市兵衛の記載はありますが、本人が伝えた出世物語が中心で、なぜ、あのようなダイナミックな判断と行動ができたのかについて、その背景をうかがえるような資料は、あまり目にしませんでした。

お墓
左が後妻為子、真ん中が正妻鶴子、右が市兵衛、
右手前に後妻清子

市兵衛は、天保3年3月16日(1832年4月16日) - 明治36年(1903年)4月5日)の人で、幼少時代は豆腐を売っていたそうですが、母方の叔父の口利きで小野組で生糸の買い付けをしていた古河太郎左衛門の養子になる。

小野組で頭角を表したものの政府の方針転換で小野組が倒産すると、小野組と自身の資産を投げ打って第一銀行の連鎖倒産を防いだことで、第一銀行の渋沢栄一の信頼を勝ち取る。

その後、足尾銅山の権利を得て、銅を掘りますが、旧態依然とした掘り方だったのを近代的な採掘にし、4年を経て大鉱脈を掘り当てて、事業を大成功させる。

1890年に日本初の水力発電所を足尾に建設し、鉱山経営の全てにわたって電力利用による技術革新を行なったり、様々な革新を取り入れているイノベーターでもあったようです。

鉱山の採掘や小野組倒産の精算において陸奥宗光や渋沢栄一と親交を深め、息子の嫁には西郷従道の娘を貰うなど、類まれなる商才を存分に発揮したようです。

鉱毒事件も歴史ではとんでもないことのように習いましたが、可能な限りの対応をしており、もっとひどい鉱毒は他にもいくらでも有りましたが、田中正造の糾弾もあって、現在まで公害として伝えられているという書き方の記事もあります。

お墓には、少し小さめの木村某の墓標が有りましたが、あまり意識しませんでしたが、古河市兵衛は養子に行く前は木村姓で、足尾銅山の鉱山長も甥の木村長七だったとかで、今度行った時(来年?)に再度調べてきます。

政商の誕生」によりますと、小さい木村姓のお墓は、木村長兵衛とのことです。光林寺には、木村長七、古河潤吉のお墓も有るようです。

2代目潤吉

陸奥宗光の次男で、古河家に養子に入り、2代目を継ぎます。

順吉

佐渡鉱山学校で採鉱冶金学を、アメリカのコーネル大で化学と鉱山学をまなぶ。古河の鉱山事業を改革、経営難の克服につとめた。明治38年12月12日死去。36歳。

3代目虎之助


古河虎之助
wiki「古河虎之助」にリンク ↑

市兵衛と側室「せい」との間に生まれたのが虎之助で歌舞伎役者も隣に立ちたがらなかったというほどの美男子。

1887(明治20)年1月1日 - 1940(昭和15)年3月30日は、日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。

幼少より慶應義塾に学び、小幡篤次郎の薫陶を受ける。明治36年(1903年)に慶應義塾普通部を卒業し、ニューヨークのコロンビア大学に留学

3代目古河虎之助の夫人となった不二子は西郷従道(西郷隆盛の弟)の娘。

古河庭園

江戸時代、西ヶ原や染井村には植木職が多く住んでいて、植木屋仁兵衛が作った牡丹数百種の庭があり、その場所を陸奥宗光が邸宅として使用することになる。

陸奥宗光
wiki「陸奥宗光」にリンク ↑

宗光の次男、潤吉が古河家の養子になった時、古河家のものになるものの潤吉が若くして没すると三代目虎之助の邸宅として作られる。

古河庭園
wiki「古河庭園」にリンク ↑

とまぁ、光林寺から古河市兵衛にいき、陸奥宗光や渋沢栄一の名前も出てきますが、明治人のスケールの大きなことは、恐らく時代の中から生まれてくるのでしょうが、大きな変革において、下層と思われていた人達から、偉人が排出されるわけです。

今の平成の世において、偉人といえば、ソフトバンクや楽天のような、実業界においての注目度が高いように思いますが、破天荒さや、先進性などの偉人が出にくくなっているようにも思います。

蛇足

光林寺から麻布十番を目指すと途中に善福寺が有ります。安政5年(1859年)には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代アメリカ合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留したところで、ヒュースケンもここで働いていたわけですが、暗殺された時、異人を埋葬することができたのが光林寺だったわけです。

ハリス
wiki「善福寺」にリンク ↑

この善福寺には福沢諭吉のお墓も有ります。

福沢諭吉

そして、かつて善福寺の境内だったという小高い丘の上に「元麻布ヒルズ」というのが立っています。

元麻布ヒルズ

これって、なんだか「男根」のような気がして、ちょっと調べてみたら、男根を神輿にしているお祭りがあるらしいのです。

男根
wiki「金山神社」にリンク ↑

この、男根神輿を提供しているのが浅草橋にある「エリザベス」という店だということで、地元浅草橋の名前が出てきたので、大慌てで雨の中、お店を探しに行ってきました。

エリザベス
「エリザベス」にリンク ↑

駅の直ぐ側に有りましたが、今まで全く気が付きませんでした。

」ルカワと「」ーメンスで、「富士」電気、「富士」通ができたとのこと。それは、ジーメンスとの関連で、日本初の水力発電を作ったことから始まるようです。

松方、大隈内閣によって出された足尾銅山予防工事命令に対して、人夫58万3千人、支払賃金47万3千円、工事材料42万円で、政府の命令期日に間に合わせて除害工事を完了させているとのことです。

ヒュースケンから古河市兵衛に行ってしまいましたが、ヒュースケンのすぐ左手前に通訳「伝吉」の墓があります。この伝吉も数奇な運命に翻弄された人のようです。

伝吉は栄力丸という船の賄方だったのですが、その船が遭難しアメリカ船に助けられて以降、10年も外国にいてイギリスの通訳として日本に帰ってきたのだそうですが、高慢な態度で、いずれ殺されるだろうと言われていたようです。

また、伝吉は外国人に日本人女性を斡旋していたとかで、その筋で恨みを買っていたのが殺害の原因だとする説もあるようです。

伝吉殺害の7ヶ月あとにヒュースケンが殺害され光林寺に並ぶように埋葬されています。

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