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陸奥前司橘則光人を斬り殺すこと第十五

さぼ郎
今昔、陸奥前司橘則光と云人有けり。兵の家に非ねども、心極めて太くて思量り賢く、身の力などぞ極めて強かりける。見目なども良く、世の思えなども有ければ、人に所置かれてぞ人々から一目置かれて有りける。

而るに、其人未だ若かりける時、前一条院天皇の御代に、衛府の蔵人にて有りけるに、内の宿所より忍て女の許へ行きけるに、夜漸く深更る程に、太刀許を提げて、歩にて、小舎人童一人許りを具して、御門より出て大宮の下りに行きければ、大垣の辺に人数立る気色の見えければ、則光、「極て恐し」と思い乍ら過る程に、八月九日許りの月の、西山の端近く成りたれば、西大垣の辺は景にて、人の立てるも確かにも見えぬに、大垣の方より音許りして、「彼の過る人罷り止どまれ。公達御わしますぞ。否不過じ」と云ければ、則光、「然ればこそ」と思えど、さすがに返るべき様も無ければ、疾く歩て過ぐるを、「然ては罷りなむ」と云て、走り懸りて来たる者有り。

則光突き低して見るに、弓ぼ影は見えず、太刀キラとして見へければ、「弓には非ざりけり」と心安く思いて、掻い伏して(身を低くして)逃るを、追いつきて走り来たれば、「頭打ち破られぬ」と思へて、俄に傍ら様に急て寄りたれば、追者走り早まりて、止まり敢えずして我が前に出で来たるを、過し立て、太刀を抜きて打ちければ、頭を中より打ち破りつれば、俯せに倒れぬ。

「良く打ちつ」と思う程に、亦、「彼れは何かにしつる事ぞ」と云いて、走り懸りて来たる者有り。然れば太刀をも指し敢えず(太刀を収めることもできず)、脇挟さみて逃るを、「けやけき奴かな(腕の立つ奴だな)」と云いて、走り懸りて来たる者の、初めての者よりは走りの疾く思えければ、「此れをばよも有りつる様には(さきほどのようには)せられじ」と思いて、俄に突き居たれば、走り早まりたる者、我れにつまづきて倒れたるを、違えて立ち上がりて、起し立てず、頭を打ち破りてけり。

「今は此くなめりこれでおしまい」と思う程に、今一人り有ければ、「けやけき奴かな。然ては罷からじ」と云て、走り懸て執ねく執念深く来たりければ、「此の度我は錯たれなむやっつけられるとする。仏神助け給え」と、太刀を鉾の様に取り成して、走り早まりたる者に俄かに立ち向かいければ、腹を合せて走り当りぬ。

彼れも太刀を持て切らんとしけれど余り近くて衣だに切られで、鉾の様に持たる太刀なれば、受けられて中より通りにけるを背中まで突き抜けて、大刀の束を返しければ、仰け様に倒れけるを、太刀を引き抜きて切りければ、彼れが太刀抜きたりける方の肱を、肩より打ち落としてけり。

然て走り去て、「亦や人や有る」と聞きけれども、音も無かりければ、走り廻りて、中の御門に入りて柱に掻き副いて立ちて、「小舎人童は何かがしつらむ」と待ちたるに、童、大宮の上に泣く泣く行きけるを呼びければ、走り来たりけり。

其れを宿所に遺わして、「着替えを取りて来」と云いて遺わしつ。本着たりつる表の衣、指貫には血付きたる、童に深く隠させて、童の口吉く固めて、太刀の柄に血付きたりけるなどよく洗いしたためて、表の衣、指貫など着替えて、さり気なくて宿処に入り臥しにけり。

終夜、「此の事若し我がした事とや聞こえんずらん」と胸騒ぎ思う程に、夜明けぬれば、云い騒ぎける様、「大宮大炊御門の辺に、大きなる男三人を幾く程も隔てず切り伏したる、極じく仕いたる太刀かな。『互に切りて死にたるか』と思いて吉く見れば、同じ刀の仕い様也。敵のしたる事にや。然れど盗人と思しき様にしたるなり」と云い罵しりて、殿上人共、「いざ行きて見ん」など云いて皆行くに、則光をも、「いざいざー」と誘い行けば、「行かじ行きたくない」と思えども、また心得ぬ様なるは、渋々に具して行ぬ。

車に乗り溢れて遺り寄せて見れば、実に未だ何にも為で置きたりけり。其れを、歳三十許りの男の葛髭かずらひげなるが、無紋の袴に紺の洗晒しの襖に、山吹の衣の袂たもとよく曝されたるを着て、猪の逆頬の尻鞘したる太刀帯して、鹿の皮の沓履きたる有り、脇を掻き指を差して、此向き彼向きて物を云う。

「何の男にか有らん」と思う程に、車の共なる雑色共の云わく、「彼の男の敵にて、切り殺されたるとなん申す」と云いければ、則光、「いと喜し」と聞くに、車に乗たる殿上人共、「彼の男召し寄せよ。子細を問わん」と云て呼ばすれば、召し将来たり。

見れば、頬かけにて顎反りたり、鼻下りて赤髪也。目は摺り赤めたる目はこすったせいか赤くなっているにや有らむ、血目に見成して、片膝を突きて、太刀の柄に手を懸て居たり。「何なりつる事ぞ」と問へば、「夜半ばかりに物へ罷らんとて此を罷り過ぎつるに、者三人、『己は罷り過ぎなむや』と申して、走り懸りて詣で来つるを、盗人なめりと恩い給いて、相構えて打ち伏せて候いつるが、今朝見給うれば、己を『年頃便り有らば』と思う者共にて候いければ、『敵にて仕つりたりける事也けり』と思い給いて、しゃ首取らんと恩い給いて候う也」とて、立ちぬ。

指を差しつ、低ぬ仰ぎぬして語り居れば、公達、「あら、あら」と云て、問ひ聞けば、いよいよ狂う様にして語り居り。

其の時に、則光心の内に可笑しと思えども、「此の奴の此く名乗りしは、譲り得て喜れし」と思いて、面持たれ上ける。其の前は、「此れ気色や若し知るかれらむ」と、人知れず思い居たりけるに、我と名乗る者の出来にたれば其れに譲りてなむ止にし、と老いの果てに子共に向て語りけるを語り伝えたる也。

此の則光は敏政と云う人の子也。只今有る駿河前司季通と云う人の父也、となむ語り伝えたるとや。

この時代は、さすがに夜は野党などが跋扈していたようです。3人を斬り殺すことは武士でもないのに大変なことです。襲われたのだから斬り殺しても良さそうにも思うのですが、自分が殺したことがバレることを恐れてもいます。

野党に声をかけられたことも恐ろしいと思い、野党を斬り殺したことがバレることも恐ろしいことと思うところが、妙にリアリティがあります。

この時代、女性の元に尋ねるのも命がけですから、偉いものです。

橘則光:965年生まれ-没年不詳。橘敏政の長男。
清少納言の夫。清少納言との間に橘則長。
光朝法師母との間に橘季通。

橘則長はwikiに情報がありますが、橘季通は情報がありません。橘季通は、次なる「今昔物語」の第十六話に登場します。

清少納言といえば、なんといっても「枕草子」。

春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山際ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。
月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は夕暮れ。
夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

冬はつとめて。
雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白い灰がちになりてわろし。

この流れるような叙情は、恐らく他の言語での表現は無理じゃないかと思います。

清少納言の兄、清原致信源頼親に襲撃されて殺されています。そのとき、清少納言は兄の館にいて、あわや殺されかけたそうですが、「尼之由云エントテ忽出開云々」とあり、あっちこっちの解説には「」とは「アソコを開いてみせて」女であることを証明したとあります。

この話が嘘か本当かはわかりませんが、事件があったのが1017年で、清少納言は966年生まれなので、当時51歳。しかも、その時点では出家していて「尼」だった。あえて女であることを証明しなければならないほどの年寄りでもなかったとは思うのですが、話は面白いほうが伝わりますね。

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